AIにはこれができない。だから人間とはこうである、人間はこうしよう。
みたいな話、みんな飽きてない!?私は正直飽きちゃって…もうこの構造だとどんな内容でもつまんなく感じるようになっちゃったよ…
直近の例だと、劇作家・野田秀樹による東京大学入学式での祝辞が「AIにはこれがない。だから人間は特別だ」論である。これがバズってるらしい。あれ?みんな全然飽きてなかったみたい。ごめんなさい。

私も読んだが、軽妙な語り口で始まり、次第に力強く、かつ温かく新入生に語りかけるその構成や言い回しは素晴らしかった。私もこんな風に語れたらなあと思う。
一方でその内容は、めっちゃ雑にいうと「AIには身体がない、心がない」「だからAIは人間に及ばない」って感じで、うーんそれ聞いたことある。てか多分先週読んだ。いや実際は読んでないけど読んだ気がするくらい、ここ数年あちこちで同じ感じのを見た。

そこで本稿では、その類の論ではなく、もっとこういう方向性で考えた方が楽しいんじゃない?という提案をしてみたい。
なお、久保明教『機械カニバリズム』(講談社, 2018)に全面的に依拠している。この本の方向性でAIを考えたらめっちゃ面白いのに、なんか全然この本みたいな考え方が広まる気配がない!よし、ちょうど従来の考え方(野田氏の祝辞)がバズったタイミングで布教しよう!という魂胆で書いている。

せっかく話題になっているようだし、以下でも例として野田氏の祝辞を挙げているが、「野田氏の祝辞がつまらない」という趣旨ではないので野田氏ファンの方もどうか怒らないでほしい。そうではなく、AIと人間を素朴に比較して「本当の人間性的なもの」を導こうとする論の構造自体がつまらないと言いたいのだ。したがって、「その手の話は全部つまらない。野田氏の祝辞も例外ではない」ということになって、あれ?もしかして余計怒られるのでは?

「本当の人間性的なもの」は無限後退する

chatGPT登場前後くらいから今までを思い返してみると、例えばこんな感じの論が見られた。

  • 「言葉を使うからこそ人間だよね」と言っていたが、AIが自然な言葉を使うのを見て、「でも本当の理解って人間にしかできないよね」
  • 「創造性は人間にしかないよね」と言っていたが、AIが絵を描くし作曲もするのを見て、「でも本当の創造性ってそういうんじゃないよね」
  • 「身体とそこに根ざす心こそが人間たるゆえんだよね」 ← new! (いやnewでもないか)

このようにAIと人間を素朴に比較して「本当の人間性」を導こうとするとき、我々は一体何をしているのかを考えてみよう。野田氏が「本当の人間性」として扱っている「心」という概念を例として取り上げる。

「心をもつAIは可能か」と問われたとき、心の働きの一部分とされる思考や記憶は既にコンピュータによってモデル化されているから、「まあ心の機能の部分的なモデル化は可能だけど…」と答えることは普通だろう。しかし「心」は、そこに潜在的、内的な領域が必ずあるという了解を含んだ概念だ。だから、全てがモデル化された心というのはあり得ない。モデル化されてしまったら、それはもはや潜在的、内的なものではないんだから。
したがって、「心をもつAI」は不可能である。それは技術的な限界ゆえではなく、モデル化できない領域を含まなければ「心」とは呼べないからだ。え、待ってズルくない?

心の完全なモデル化は原理的に不可能である。しかしそんなズルさをもつからこそ、心は部分的にはどこまでもモデル化できるとも言える。だって、どれだけ精巧にモデル化されたとしても、そこから逃れる潜在的・内的な何か=「本当の心」が必ず想定できるから。モデル化され形式化され客観化された「心」は心そのものではなく、そこから逃れる「心」こそが、自己や世界に意味を与える固有の拠点だから。

ここでの「心」を、「人間性」とか「私」に置き換えても同じことが言える。

そしてもう一つ前提が潜んでいる。身体、思考、感情が何らかのシステムによってモデル化されて、理解や操作が可能になる際には、「モデル化され得ない『私』」が「モデル化された私」をちゃんと制御できる、という前提だ。
だから安心してどんどんモデル化できる。というか、これは自論だが、生成AIの進歩への応答においては「でも本当の人間の○○ってこれじゃない何かだよね」と言うことでむしろ「これじゃない何か」の不明瞭さにムズムズしちゃって、今度はそこがモデル化される、みたいな動きもあるように見える。

久保はこう述べる。

こうして自己の形式化は、「本当の自分」の無限後退を喚起しながら、自己なるものの意味を絶えず空虚なものにしていく。
――前掲書. p.187

人間とAIを、客観的な位置から比較する人間 ← 誰だよこいつ

そもそも生成AIのようなある種のソフトウェアは、なぜわざわざAI(人工知能)と呼ばれるのか?それが人間の知能を模倣し、再現しようとする試みだからだ。1950年に提唱されたチューリングテストが象徴するように、AIはその出発点からして人間との類似性を目指している。
AIが人間と似ているのは当然…というより、今や逆なのだ。人間が自分との類似性を意識したときに、AIと名付けられる。本稿では詳述しないが、ロボット、アンドロイドといった単語も人間との比較を前提としている。

そんな「人間との類似性を原理的に含むAI」と「人間」を、人間自身が比較して、決して完全にはモデル化されない「本当の人間」を一旦措定して称揚しているわけだ。こう書いてみるとハチャメチャなことしてない?

でも不思議なのは、なぜその比較がわりとすんなり受け入れられるか、である。これは、ある人間観が我々にインストールされているからではないだろうか。
その人間観とは、「事物を客観的な位置から比較できる主体としての人間」である。こいつこそが本稿における悪役だ。こいつがAIと人間を比較するときに現れている。いや、より手前の「ある機械(ソフトウェア/ハードウェア)を見てそれをAIだと言う」ときに既に現れているのだ。

どういうことか?先述したように、人間が自分との類似性を意識していない機械はAIとは呼ばれない。機械が「AI」と呼ばれるのは、その機械が人間と比較されているからだ。
機械と人間の比較において、比較する主体である「人間」は比較対象の一方そのもの(人間)である。そのままでは人間が比較対象として内在しちゃってるので、その内在性を無視できるようにするために、「事物を客観的な位置から比較できる主体としての人間」という外在的な謎のヤツが現れる必要があるのだ。
なお、こいつは実に西洋近代的で、人文学においてもう70年くらい前から炎上し続けている。近年ではデザイン界隈でもエスコバルの『多元世界に向けたデザイン』が注目されるなど、炎上が飛び火している。あれ、私もこいつを否定してるのになんかかわいそうになってきた…

むしろ機械との類比性を徹底的に認めた方が楽しい

自分が「事物を客観的な位置から比較できる主体としての人間」ではあり得ないことを認め、「客観的な比較」のふりをやめて、自らが比較に内在していることを直視してみよう。
自分が比較する主体であると同時に比較される対象でもあることを率直に引き受けたとき、人間の視点から機械を捉えるだけでなく、機械の視点から人間を捉えることも生じてくる。そのような比較を通して、人間も機械も互いに影響を与え合いながら常に変容しているのが実情なのだ。

私は、その実情に飛び込んでみる方が楽しいと思う。そのために、あえて人間を含む生物と機械の類比性を徹底的に認めてみないか?

え、そうすると「人間は機械に過ぎない」ってことで、人間を何か単調で予測可能なものに貶めてない?と思われるかもしれない。むしろ逆なのだ。「人間」なるものを「機械という単調なものではないもの」として措定する従来の発想は、機械の否定としてしか人間を語れず、「人間」なるものを機械の定義に従属させることになっていて、こっちこそ単調である。

客観的な位置から比較できる視点を放棄し、人間を機械との類比性において捉えることは、自分自身があらかじめ予想も制御もできない仕方で生成変化していく筋道に自らを開くことだ。その方が楽しそうではないか?
いや「本当の人間性」がないと安心できないよ、という声もあるだろう。しかし、「本当の人間性」がどんどん無限後退する中でそれを守ろうとすることは、決して援軍が来ない籠城戦だ。そっちの方が安心できないのは、私だけだろうか。

動物との類比性に走るのもアリかもしれない

ここまでが久保明教『機械カニバリズム』に依拠し、筆者流に噛み砕いた部分である。
引き続き依拠しつつも、ここからは私なりの提案を付け加えてみたい。

久しぶりに野田氏の祝辞に戻ると、「身体」「肉体」に注目している側面を強調するのは面白いかもしれない。ただし、その場合でも野田氏の「心」の称揚は捨てなければならないが。

人間における「肉体」への注目を突き詰めたときに立ち上がってくるのは、肉体をもつ点で類似する「動物」との比較である。
前節では機械との類比性において自らを捉えることをスタート地点としたが、AIのことはもう忘れて、代わりに動物との徹底的な類比性を認めてみることからスタートする、という提案だ。

ただ実は、これまでの議論の「機械」や「AI」を「動物」に置き換えても、ほとんどそのまま成立するのだ。
動物と人間を比較する際の従来的な発想では、「動物は精神をもたない単調なもの」のような像を先に置き、「人間にはそこから逸脱する領域がある」として「本当の人間性」を措定する。このように動物と機械を同じような枠組みで捉えられるとしたからこそ、西洋近代は先のような謎の「客観的な視点に立てる人間」を生み出せたのだが、その辺の詳細も『機械カニバリズム』で論じられている。

したがって、「動物との類比性」からスタートしたとしても、わりとすぐに「機械との類比性」ルートと合流して区別がつかなくなるかもしれない。

野田氏的AI談義に興奮しちゃうような欲望とは?と問うのも面白い

さて、AIと人間を素朴に比較して「本当の人間性」を導こうとする従来の議論構造を散々貶してきたが、じゃあ世間はどうなのかというと野田氏の祝辞が称賛を集めているわけで。
「それに乗っからずに大衆とは違う高みにいるクールな俺」を求める筆者の愚かな欲望はさておき、AIに関する論が注目を集めている現象を細かく観察することも、併せて提案したい。

人々はどんな「本当の人間性」の措定に興奮しているのか。
生成AIのどんな進歩が人々に驚きや恐れを与えるのか。
そして、それらの背後にある人々の欲望は何か。

こういった観点で、自分自身の欲望も内在させながら探究することで、実際には生成変化している「私たち」がどんなプロセスで変容しているかを読み解けるかもしれない。

ちなみに

人類学や技術哲学を勉強していると、近代的な人間観を批判的に乗り越えるための概念や主張が、技術・道具・機械・AI等と絡めた形で登場することがある。
例えば、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ」概念、ベルナール・スティグレール『技術と時間』(1994)での「人間は最初から技術的(人工的)な存在だ」という主張、ブリュノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論」など。
これらは必ずしも「機械との類比性」を全力で突き詰めているわけではないが、機械との類比性を考え始める取っ掛かりとして良さそうだと思った。