良い意味でだいぶイカれたグループLINEがあり、何かの流れで投げかけられた「愛着ってなんだろう?」という問いから議論が盛り上がった結果、まさかのLINE上での哲学対話が自然発生した。素人の議論ながら、結果的になかなかいい仮説ができたんじゃないかと思うので、投稿のネタにしてみる。

愛着を感じるもの、感じないものあれこれ

愛着とは何か?の問いは、こんな話題が発端だった。

「自分の所有する車のことを『愛車』と言うが、他に愛がつくモノは少ないかも?愛着を感じるってどういうことなんだろう?」

その問いから、まず個人的に愛着を感じるもの、感じないものにはどんなものがあるかを考えていった。

  • 車やバイク、スーツケースやランプにも愛着を感じる。
  • 機械式腕時計には愛着があるが、普段使いしているGarmin(スマートウォッチ)にはあまり愛着を感じない。
  • そういえばスマートフォンってこれだけ一緒に過ごしているモノなのに、愛着が湧かない。ガラケーのときはもうちょっと愛着を持っていたような気がするが…?

では、愛着を感じやすいものと感じにくいものの違いはどう説明できるのか?と考えると…

  • 「モノそのもの」とのインタラクションがどれだけあるかの違い、という説。
    機械式時計:モノを介して表示される時刻を読み取る。
    ↔ スマートウォッチ:ディスプレイ上の文字情報を読み取っていてモノが何かを表しているように感じない。
    ガラケー:パカパカしたりボタンを押したりしていた。
    ↔ スマートフォン:一応画面を触るけど、インタラクションはスマートフォンそのものとではなくアプリやらウェブやらプラットフォームやらとのもので、スマートフォンはその媒介として捉えられている。そう思うと、スマートフォンに愛着を感じないのは、窓に愛着を感じないのと似ている?
  • モノが合目的性に収まるかどうかの違い、という説。
    「モノを使う目的」とか、「手段としてのモノ」を超えたとき、愛着と言うのかもしれない。その観点からは、スマートフォンは色々できすぎるために、目的、何かへの手段から脱しにくいと考えられる。

インタラクションの程度説によれば、楽器に愛着を感じやすかったり、壊れたモノを直すことで愛着が増したりするのも説明できそうに思う。しかし、マウスとキーボードはどうだろうか?毎日のように触りまくっていて、インタラクションがすごくあると言ってもよさそうなのに、愛着があまりない人が多いのではないか?やっぱり、モノが「媒介」すぎると愛着の対象になりにくいのだろうか。

愛着の先行研究を踏まえても、疑問が残る

…と議論していたところで、参加者の1人が先行研究で分かっていることや書籍での情報をピックアップして共有する流れになった。

  • 前提として、愛着研究では「愛着 = 情緒的つながり」と定義されている。
  • モノに対しての愛着 = 情緒的つながりは、そのモノに対して個人の何かしらの「意味」を投影することで発生するといわれている。
  • インタラクションがあるモノだと、モノの擬人化が起きやすく、情緒的つながりを感じる記憶や意味が発生しやすくなると考えられている。
  • 一般的に自転車や義足など、自分の身体と一体化するような感覚になるモノに対して愛着が湧きやすい、という研究もある。
  • R2-D2、キティちゃん、バンブルビーなどのキャラには愛着を感じやすいが、それは明確な表情や言語がない分、こちら側が勝手にコミュニケーション取れている感覚に陥るからではないか。つまり自分の好きなように解釈できる。そのような余地がある方が、情緒的つながりが出来やすい。LOVOT、aiboもこれと似た例。逆に、C-3POのようにしっかり喋るキャラには、個人の「意味」を投影しにくい。圧倒的にR2-D2の方が人気なのはそのせい?
  • とはいえ、全くそのモノとの思い出がない初対面的な何かに愛着を感じることもある。そのときは「記憶」ではない何かを投影している?

とのことだ。
愛着とは情緒的つながりである。「意味」を投影することで愛着が発生する。
なるほど!と思う反面、「『情緒的』とは何か?『つながり』とは何か?」「意味を投影するってどういうこと?意味の投影しやすさは何で決まっている?」という疑問も残る。
ここまでで出てきた愛着のあれこれを、もっとシンプルに説明できないものか?

主体側に着目して考え直し、タイトルの仮説に至る

ここまでの問いは、

「愛着の対象となるモノ側の特徴はなにか?」 「主体はモノに対して何を感じ、何を投影しているか?」

という方向性であった。この後者の問いをもうちょっと主体寄りにして、

「『モノに愛着をもっている』と言えるような状態のとき、主体の側に何が起きているのか?」

という問いに変え、これに答えようと考えたことで以下の仮説に至った。

「あるモノと関わるときに生じる自分自身の〈あり方〉が一定程度固まり、それが特異的だ(つまりそのモノとの関わりにおいてのみ生じる自分の〈あり方〉だ)と思えたとき、『そのモノに対して愛着をもつ』と言える状態になる」

主体の〈あり方〉が愛着をつくるとはどういうことか

自分自身の〈あり方〉とは、「分人」みたいな概念だが、別の人格までいかずとも、ある条件のとき立ち現れる自分自身の感情や言動の傾向、的なことである。家に一人でいるときの〈あり方〉、夫/妻といるときの〈あり方〉、上司といるときの〈あり方〉がそれぞれ異なるように、色々なモノと関わるときの〈あり方〉も異なっているのでは?と考えてみた。
そしてあるモノと関わるときの〈あり方〉が、そのモノとの経験によって形作られ、〈あり方〉の核みたいなものができると、その〈あり方〉は特定のそれと関わるときだけに現れる特異的なものになる。
特異的な〈あり方〉に至って、それをポジティブに感じられた場合、その〈あり方〉を維持したい、失いたくない、と思うようになり、これをモノへの「愛着」と呼ぶのではないだろうか?
で、その一つの現れ方として、あたかもモノに何かが宿っているように感じられたりするのでは、と推測した。

具体例に当てはめての検討

このように考えると、スマートフォンやスマートウォッチ、マウスやキーボードに愛着が湧きにくいのも納得できる。
自分自身の〈あり方〉が、「モノそのもの」とあまり関係がないところに対する〈あり方〉として出来上がってくるからだ。
例えばスマートフォンを使っていると、アプリやらウェブサービスやらに対する〈あり方〉が出来上がってくると思うが、それは「スマートフォンそのもの」とはあまり関係がない。
ただ、例えば「ゲームするときだけ使うマウス」とかだったら、そのマウスに対する〈あり方〉の核はできそうなので、愛着が生じやすくなるだろう。

あと、C-3POみたいにすげー喋るキャラよりも、R2-D2やバンブルビーみたいに(少なくとも流暢には)喋らないキャラに愛着がわきやすいのも、この仮説で説明できそうに思う。
C-3POくらい喋られると、C-3POと関わる自分自身の〈あり方〉が揺らぎやすくなって、核ができにくい、あるいは一旦は核っぽくなってもそれを否定されるようなことが起きる。他の作品のキャラで言うと、幽遊白書の飛影のキャラソンCDを見て、「いや飛影は歌わねえだろ!冷めるわ!」と思う、みたいなことが起きる。笑
一方R2-D2くらいの発話であれば、多少R2-D2の「らしくない」行動を見ても、自分の〈あり方〉の側で吸収できるので、特異的な〈あり方〉が固まりやすい。

一旦〈あり方〉ができて維持したくなった後で、対象(モノとか)側の変化に際して、これまでと同じ〈あり方〉の自分でしっくりこなくなったとき、「もはや私が愛着をもっていたアレじゃない」となって拒絶したくなるのかもしれない。

こう考えると、愛着は愛情の一側面、あるいは別物と考えられる気もする。推しの人物やパートナーや子どもに対して、「愛着」だけが突出しているとまずいことになるのは、自分の〈あり方〉を維持することが優先されるからかもしれないと思った。
また、家族が認知症になることのキツさが、介護の負荷それ自体を超越して絶望的なのは、「その人」と関わるときの自分の〈あり方〉が維持できなくなり、愛着が壊れてしまうからかな、と。

この仮説の課題

愛着のあれこれにおいて、この仮説が根底から崩壊するような例外は今のところ見つかっていないので、それなりに使えそうである。
ただまあ正直、〈あり方〉もなかなか抽象的なワードなので、まだまだ浅い仮説だとは思っている。あと個人的には、前々項で「ポジティブに感じられた場合」とサラっと流しているところ、ここで色々と複雑なことが「ポジティブ」の一言で雑にまとめられているのが微妙だ。ここをもっと探究したい。