※ 『チ。―地球の運動について―』(以下『チ。』)のネタバレをアホほどします。
※ 『やれたかも委員会』はドラマをちょっと観ただけなのに勝手にインスパイア系概念装置を使ってます。すみません。

『チ。―地球の運動について―』×東京シティビュー ~世界の見方が変わる体験を、展望台で~に行った。
谷川嘉浩氏、小川公代氏、下西風澄氏、伊藤亜和氏が寄稿文を書いた展示が目当てだったが、他の展示もプラネタリウムも堪能した。

展示に触発されて、今さら『チ。』の物語から考えを膨らませてみたものが本稿である。ただ、展示の余韻を味わいながら考えていたつもりが、いつの間にか全然違う方向に行っちゃって、「『チ。』ってそんな話じゃないよね!?」とお叱りを頂戴しそうな内容になってしまったので、軽い冗談だと思って読んでいただきたい。

結果的に展示のネタバレは全然していない。意図的に避けたわけではないが。

『チ。』を真でも善でも美でもない切り口で見る

真理の探究、歴史への献身、天体や理の美しさ、科学の進歩――などといった壮大で崇高な話はしない。そういう「意味」がありそうな感じのことは尽く捨てる。
私はむしろ、「意味」がなくなる瞬間や、無意味な何かに振り回される人間の物語として『チ。』を見たいのだ。人間の愚かさ、醜さ、不合理さを見つめて愛する。そんな話ができればと思う。

というわけで本稿でメインに据えていくのは、(私のような)クソ男によくある、過去のある場面が勝手に思考に割り込んできて、「あのときのアレ、ヤれたよなあああ!!」式のよく分からない煩悶に頭が占拠されるという、サイテーすぎる現象である(1)。正気か?

内なるヤれた委員会

相手の尊厳を度外視した断罪されるべき思考様式だが、少なくとも私を含む一部の男にはそれなりの頻度で発動してしまうのだ。
言うなれば、『やれたかも委員会』(吉田貴司. 双葉社. 2016-)が内面化して、しかも『やれたかも委員会』とは違って満場一致の「やれた」判定を延々と突きつけ続けてくるようなものである。「お前はヤれた。にも関わらず、ヤらなかった」と己を苛む内なる審判者の声。本稿ではこれを「内なるヤれた委員会」と呼ぼう(本店からかけ離れた不誠実インスパイア系概念である。誠に申し訳ない)。

「内なるヤれた委員会」のすごい(?)ところが二つある。一つは、現状に満足していたとしても関係なく稼働してくること。もう一つは、「じゃあ今ヤれるとして、ヤりたいか?」と問われると「いやまあ…今ヤりたいかと言われるとそんなに…」となる(場合が多い)ことだ。

…ちょっとクズ過ぎない?大丈夫これ?

「ヤッた」キャラは崇高なのでいいとしても…

何の話だっけ。そうだ、『チ。』の話である。

ラファウ(第1章)やオクジーとバデーニ、シュミットに見られる、自分を突き動かしたものへの死を賭した忠実は、英雄的だ。彼らの行為は崇高さを帯びる。彼らは「ヤッた」(2)。
彼らには「ヤるか、ヤらないか」の選択肢が提示されているようでいて、実は選択肢などない。もし「ヤらない」ことで生き長らえたとしても、その生は偽りであり、虚無であり、死に勝る苦痛なのだ。そのことを彼らはどうしようもなく確信してしまった。

厄介なのは、この「実は選択肢などない」という確信がもたらされてもそれを無理やり抑圧してしまったり、後になってから「あれは選択肢などなかった」という確信がもたらされたりすることだ。
その超しょぼいバージョンが「内なるヤれた委員会」である。

以下では、「内なるヤれた委員会」によって厄介なことになったキャラとしてピャスト伯(確信を抑圧し続けた)とヨレンタ(後になって確信が来た)を、そして「ヤった」的概念がおかしなことになるキャラとしてドゥラカを、順に見ていきたい。

「ヤらなかった人生」に苛まれたピャスト伯

『チ。』において確信を抑圧してしまったキャラは、何と言ってもピャスト伯だろう。ちなみに筆者は世にも珍しいピャスト伯推しである。
彼が満ちた金星を見た瞬間、「選択肢などない」ことが確信としてもたらされた。にも関わらず、「ヤらなかった」。

「内なるヤれた委員会」は、「ヤらなかった先の、今のお前の生は偽りである」と糾弾してくる。まあ私みたいな凡庸な男だと「確信」は大した強度じゃないので、今の生が偽りだという感覚は一瞬しか生じず、普通に人生に戻っていける。
しかしピャスト伯の「内なるヤれた委員会」はレベルが違う。糾弾が延々と続き、生が偽りだという感覚は無限に増幅していった。

ピャスト伯の悲劇的であり、かつそれゆえに魅力的なところは、「ヤらなかった」生に「意味」や「正しさ」のような根拠を求め続けたことである。
皮肉なことに、信念や信仰(ここで言うところの「ヤらなかった生の正当性」)は、根拠によって裏付けられているから力を発揮する、**というものではない。**根拠に基づいて信じているのでは、自分の判断に従っているだけで、真の信仰とは言えない。

もちろん信念、信仰、「ヤらなかった生の正当性」には根拠が必要である。だがその根拠は、既に信念や信仰を持っている者にしか明かされない。

われわれが、その理由がわれわれの信仰を証明していると思うのは、われわれがすでに信仰をもっているからである。信仰のためのじゅうぶんな理由が見つかったから信仰する、というものではないのだ。
――スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』 鈴木晶訳. 河出書房新社. 2015

信念や信仰は、「いかに信じているか」という内実によってではなく、「何をしているか」という習慣や行為、つまり意味のない外的な形式によってこそ、力をもつ。信仰を既にもっているかのように行動しなければ、信仰はやってこない。「ヤらなかった」生に「根拠」を見出そうと努力すればするほど、真に説得力をもつ根拠からは遠ざかっていく。

ピャスト伯は「根拠」を見出そうとし続けることでむしろ、形式としては天動説への疑いを反復していたのではないか?だから、天動説への疑いの「根拠」として満ちた金星が作用し続けたのだ。逆説的だが、彼こそが作中で最も地動説を信仰していたと言えるかもしれない。

遡及的に「ヤらなかった」ことになったヨレンタ

ヨレンタは、メインキャラの中ではあまり論じられない方な気がする。やはりよく言及されるのは、分かりやすく英雄的なラファウ・オクジー・バデーニ、裏主人公としてのノヴァクだろう。ヨレンタに関しては、ノヴァクやドゥラカの人生の一部として扱われることが多いように思う。

ヨレンタはそもそも、重要な空白期間のことが作中で明かされないので、語りにくいのも無理はない。しかしだからこそ、本稿では想像を膨らませて、「ヨレンタは、後になって『あれは選択肢などなかった』という確信がもたらされたキャラだ」という見方を提案したい。

彼女はオクジー・バデーニと共に地動説に殉ずることができず、生き残らされてしまった。それは、オクジー・バデーニの決定的な仕事や場面に居合わせなかったこと、外からの介入によって火刑を免れたことなど、外的要因によるところが大きい。それにも関わらず、あの町から逃げ出した後にヨレンタは実感したはずだ。「あれは選択肢などなかった。あれを逃した私は既に真の人生を失ってしまった」と。

――ある夜、男は女性と酒を飲んでいて、なんだかいい感じだ。でも明日は早いし、そもそもこのあたりにラブホはない。それにこの感じならまたすぐ会えて、近い内に付き合えるだろう。そう思ってその日は別れる。しかし、二度と彼女と会うことはなかった。
二度と会えなくなったことで、あの夜が象徴性を帯び、あらゆる些細な会話、仕草、表情、物、場所、瞬間に意味が付与され、遡及的に「あの夜の全てに意味があった」ことになっていく。「あの夜、絶対にヤらなければならなかった」と、後からであるがゆえに確信される。
なぜヤれなかったのか、わからない。わからないながらも、あのあたりにラブホがなかったのは確かだ。男はやがて富と権力を手に入れ、そのエリアにラブホを建て始める。
駅前に立ち、林立するラブホを眺めて男は思う。もしまたここで彼女と会えたら、とんでもなく驚くだろう。でもきっと、今は彼女と穏やかに話せるように思う――

これがヨレンタである。

「ふざけるな!ヨレンタはピュアな女の子で⋯まあ後でなんか怖い大人になっちゃったけど…とにかくそんな浮ついたラブホ建て男と同じなわけない!」

ふざけてなどいない!いや間違えた、ふざけてはいる!
まあ深刻な例で真面目にヨレンタを語ることはもちろんできるが(例えば家族が急死したとき「あれが最後の会話だったんだ」と長年苦しむ、とか)、ベースとして深刻な『チ。』を深刻な切り口で論じても深刻になるだけだ。だから意外性を持たせようとふざけてるんじゃないか、皆まで言わせないでくれ⋯

自分だけが生き残ったことで、オクジー・バデーニと共にあった日々が、そこでの感動が、ヨレンタにとって遡及的に唯一の輝きになった。「全てを捨ててでも彼らと共に地動説に殉ずるべきだった(あの夜、絶対にヤらなければならなかった)」ことになってしまったのだ。なぜ自分はそうできなかったのかわからないが、C教に阻害されたことは間違いない。そうだ、異端解放しよう(ラブホを建てまくろう)。
……私が近日中に死んだら過激派のヨレンタファンに撲殺されたと思ってほしい。

ここで「内なるヤれた委員会」の二つ目の特徴が効いてくる。「じゃあ今ヤれるとして、ヤりたいか?」と問われると「いやまあ…今ヤりたいかと言われるとそんなに…」となるやつだ。まさかと思うだろう。私も書きながら思った。

ヨレンタは、「オクジーの本」の存在を知ったときに驚きのあまり高熱が出たと言った。が、ついにその内容を聴いたときのヨレンタに、あまり大きな感情の動きはなかったように見える。それはなぜなのか、初見のときは分からず違和感を残していた。
しかし「内なるヤれた委員会」の上記の特徴が、ここでよく表れていると考えたらどうだろうか。

本当に感情を動かされるべきなのは「あのときの自分」であり、今の自分は既に「あのときの自分」を救うための存在になっている。だから、ヤるべきは「あのときの自分」であり、今の自分ではないのだ。
オクジーの本の暗唱を聴き終わって微笑むヨレンタは、ラブホが林立する駅前で、あの夜の彼女と偶然に再会して穏やかに会話する男の姿に重ねることができる。

我々はドゥラカだが、たぶんドゥラカになれない

ピャスト伯ほど何かに「根拠」を見出そうとひたむきに努力し続けることができず、ヨレンタほどの強度で「あのときの自分」を救う不可能な試みに身を捧げることもできない我々は、流され、迷い、小さな「内なるヤれた委員会」に翻弄され、何もかも中途半端に生き、死んでいく。

安心を得ようといくらがんばっても安心できず、結局は流されるままに行動してしまう我々はドゥラカのようだ。だが一方で、朝日を直視した死に際のドゥラカの地点に、たぶん我々は到達できない。

ドゥラカの最期に一体何が起こったのだろうか?自らの生の無意味さに絶望したその次の瞬間、彼女は感動に目を開き、涙していた。これを私は、「無意味だと悟ったにも関わらず、別の『確信』がもたらされた」ではなく、「無意味だと悟ったまさにそのことによって、既にあった『確信』が明らかになった」と考えてみたい。

信念とドゥラカが呼んだものは幻想、すなわち彼女が世界を世界として経験するための物語の枠組みである。その物語はしかし、ある「何か」を隠しておくために編まれたものだ。
「何か」は物語の繕いきれないほころびであり、ほころびを覆い隠さなければ物語は崩壊する。だが同時に、そのほころびの存在こそが物語を編まずにはいられない原因でもある。
「何か」を正確に「これだ」と指差すことはできないが、「何か」性を強烈に帯びる象徴的なもの、それが朝日だったのだ。だからドゥラカは朝日を見ることができない。見ればほころびがあらわになり、彼女に見えている世界が崩壊してしまうからだ。

彼女は信念なるものに従って生きているつもりで、無意識で「何か」へ引き寄せられていたのだろう。それが「地動説」に巻き込まれに行くという一見不合理な行動として表れる。その過程で物語の編み目はだんだん緩み、ほころびは隠しきれなくなっていく。
死に際したことでついに物語が全ての力を失い、絶対に見えてはいけなかったほころびに直面してしまったまさにそのとき、日が昇った。「何か」は、目に映り身を照らす朝日と一体化したのだ。ドゥラカに圧倒的な「確信」がもたらされた瞬間である。

…と、せっかくエモい話になったのに「内なるヤれた委員会」概念をぶち込んでいく。ここでドゥラカに起こったことを「ヤッた/ヤらなかった」で表象しようとしても、破綻をきたしてしまうのが面白いところなのだ。

ドゥラカの「確信」は、無理やり「ヤッた/ヤらなかった」で言うならば、「私はずっと前から既にヤッていたのだ」という確信である。
「ああ、あのときの俺は実はヤッていたのか!」なんてことは、まずあり得ない。あり得るとしたら、「ブラを外した時点でヤッたと見なすという流派に転向したので、過去のあれもヤッたことにする」とかだろうか?だがそんなのは恣意的こじつけでしかなく、確信さんに失礼だ。
この点で「内なるヤれた委員会」概念の限界が露呈する。

「ずっと既にそこにあったもの」として「確信」がもたらされたから、ドゥラカは最期に子供に戻ったのだ。『チ。』の作中で最も激烈と言っていいであろう、人間の身に余る暴力的幸福が描かれたシーンだと思う。
そんな奇跡の境地、「ヤッた/ヤらなかった」が破綻をきたす境地にはまず至れないという意味で、我々はドゥラカになれない。

おわりに

「内なるヤれた委員会」というクソ概念を用いて、三人のキャラを強引に解釈してきた。推しのピャスト伯と、メインキャラの割に取り上げられることが少ないように思えるヨレンタとドゥラカを論じられたので、個人的には満足である。

意味がなくなる瞬間や、無意味な何かに振り回される人間の物語として『チ。』を見たい、とはじめに書いた。
更に言えば『チ。』は、読者/視聴者である我々さえも、無意味に振り回されるように作られていると思う。そこが好きだ。

第3章ラストにおいて、オクジーの本の出版というメインミッションは見事に失敗する。
その無意味に耐えられない我々は、次にドゥラカが飛ばした手紙に意味を見出したくなる。しかしとうに亡くなったポトツキ宛の効力を持たない短文の手紙に、意味を見出すことは難しい。
考える間もなく、追い打ちをかけるように最終章の舞台が「ポーランド王国」と明記される。フィクションの中なのに、「これまでのP王国はフィクションの世界でした」と否定しているとも取れる表現に、我々は戸惑う。

この「無意味」の波状攻撃がたまらない。どうも妙な性癖に目覚めてしまったようだ。

なんか初めは展示レポートを書こうとしていた気がするが、一体どこから妙な批評へと踏み外したのだろうか。…最初からか。
『チ。―地球の運動について―』×東京シティビュー ~世界の見方が変わる体験を、展望台で~、おすすめです!!

脚注

  1. 本稿では、同意なき性的接触は加害であるという前提の上で、その前提から零れる「内側の煩悶」の方を見るための道具立てとして「ヤる/ヤらない」的語彙を使っている。
  2. もちろん彼らそれぞれの「ヤッた」の質は異なるし、その差異こそが作品の重要な骨格だと思う。