はじめに

Cチームは、当初「調査」についての本を読んだりして、少し回り道をしてから星座を書きだすという経緯になった。岸政彦『質的社会調査の方法』等を読む。「量的調査」と「質的調査」の違い、何を「面白い」とするかの価値設定などは刺激となった。(全然考えの違う人の話を、批判せずに聞くことの大切さ。実践は難しいのだが。)

その後、思うままに現状の星を書きだす段階に入る。KCAでやった方法論をもういちど使ってみようということだ。様々な星・星座をつくり、ディスカッションした内容をChatGPTにまとめさせ、トピックタイトルをつけさせると、「こういう事を話していたのか」という発見があった。例を記すと「オーガニック志向排外主義の近接」「物価高を『体験化』して集客:100円朝食と限界飯」「北欧の『つくる民主主義』と日本の代表まかせ」「『お客様化』と当事者性の希薄化」「天才神話のゆらぎと『みんなの力』時代」「『安心の島』を探す社会心理」など。まとめの書きっぷりは「もはやそれっぽすぎて記憶が上書きされるレベル」で、自分たちの頭がよくなったような気がした。これは怖い。

不審者パーカー

さて、星座づくりをしていく中でひときわ異様な星が見つかった。 「不審者パーカー」である。 これは、もともと完全日よけ対策ファッション(?)として、ワークマンなどで販売されていたもの。(現在は売り切れ、販売なし) https://toyokeizai.net/articles/-/877738?display=b 「日よけファッション」という意味では、顔を広範囲で覆う製品「ヤケーヌ」を着用する指原莉乃の姿も一時SNS上で話題になっていた。 https://x.com/aaachanpyon/status/1922515104802722198/photo/1

特に「不審者パーカー」については、従来のコードからは逸脱したその「過剰な」日よけ対策ぶりに、メンバーの中からは「なぜこの格好で外出できるのかが理解できない」という感想もでた。 「なんだこれは」という宙づり感覚と「ここには何かありそうだ」という予感をメンバー全員が共有していた。

これが、なんらかの「意味の解体」をしているのだとしたら、それは「不審者パーカー」が「敗者の救済」を行っているということだ。不審者パーカーについてあれこれ議論しつつ、これが「どんな敗者を救済しているのか」の仮説を立ててみることにした。

不審者パーカーは、どんな敗者を、どう救済しているのか?初期仮説

*注釈:ここでいう「敗者の救済」とは、哲学者ヴァルター・ベンヤミンのイデオロギー観に基づく考え方である。メインストリームを既存の意味のシステムにおける「勝者」とするなら、その枠に収まりきらず排除されている世界観に光を当て、意味のシステム自体を組み替えて新しい世界観を提示する。そうして新たな時代表現の手がかりを見いだす営みを、ここでは「敗者の救済」と捉える。

この不審者パーカーを前にしてまず我々(不審者パーカーを着ない人間)が抱く違和感は「ここまで極端な日除け対策をする人は、人の目が気にならないのか?気にならないとしたらなんで気にならないのか?」というものである。日よけという行為は「美白」=「外見をよくしたい」という発想からでているはずなのに、その結果、外見を覆い隠すような恰好をするということに、(我々から見ると)奇妙なねじれがある。 このねじれを入口に、「意味のシステムからの排除」と「救済」についての仮説をいくつか立ててみた。(論点が重なりあっているのはご容赦ください)。

  • 「夏らしく装え、でも焼けるな」という無理ゲーからの解放(救済)

世間のメディア情報は、夏には夏らしい素敵な装いをいたしましょう、という"イデオロギーのよびかけ"をしてくる。夏らしい装いというのはだいたい肌の露出面積も増えるものだが、世間は同時に"美白でいましょう"というイデオロギーも同時に呼びかけてくる。これを同時に満たすのは無理ゲーである。この無理ゲーに対応できないのが、敗者である。不審者パーカーというものが製品化されたことで、この矛盾する呼びかけの"片方"には反応しなくて済むようになった。

  • 「イケてる、イケてない」の軸からの一時的逸脱という救済

日焼けしないという機能に全振りしながら無地・無柄・単色であるこの装いは、見も蓋もないという印象を与える。このような装いをあえて選ぶということは、服が「イケてるかどうか」にとらわれる価値観からの逸脱と、(イケてるイケてないコードの)戦略的留保を意味しているのではないか。

  • むしろ知的なわたし、という救済

非論理的・ショー的なアクションがもてはやされる現代において、「見かけにとらわれない」というふるまいが、むしろ「理性や合理性で物事を判断できる知性があること」を表現することになり、反知性的なムーブメントへの反抗の契機となっている、という仮説。明らかな手ぬき服を着ることで、むしろ「そこに頓着しない私」「それより大事なものをもっている私」を「主体的に」選び取っている、という感覚がそこにあるのではないか。

  • 「見られる」抑圧からの解放、という救済

SNSでいきなり批判コメントをなげつけられる。検索履歴は広告配信のためにつつぬけ。街にでれば監視カメラ…というように、「一方的に見られる」時間が我々の生活の中に織り込まれている。見られることに麻痺し、いちいち気にしない、というのがシステムに順応できている状態である。そうなれない人――(よけいな)不安や恐怖をおぼえてしまう人――が、敗者だ。顔を隠す「不審者パーカー」「ヤケーヌ」は、匿名性という安らぎ(「見られない時間」「ちょっとほっとする」時間)をそういった「敗者」に提供しているのではないか。

  • 「ちょっとした変態」になる、という救済

つねに「顔」によって認証されたり値踏みされたりという社会においては、顔を隠すことで、「匿名」な存在になれる。そして(旅の恥はかき捨て、というが)誰も自分と気づかない服装でいることで「人の目を忘れて」「無敵」になれ、大っぴらにはいえないちょっとした「変態願望」を叶える機会になるのではないか。自転車をこぎながら、マスクの下で、歌を歌ったりするかもしれない。(ふだんはしないのに)

  • 「さなぎ化」という救済

メンバーの一人が「この不審者パーカーって、なんかのぺっとして…さなぎみたいじゃないですか」と言ったことがきっかけで生まれた仮説。芋虫と蛾の中間で、そのどちらでもない、という「停止状態」にいったんなる。そういう「固定化された未完成」とでもいうべき存在でいたいという深層心理の願望が、このファッションを選択させているのではないか…という(いささか考えすぎかもしれないがしかし)魅力的なアイディア。このアイディアは、単に「日焼け止め」としてだけでなく、自意識の表明として不審者パーカーが社会に(女性のみならず男性にも)受け入れられていく可能性を示唆するものである。

さて、これらの仮説を検証するべく、我々は実際に、このような日焼け止めファッションを使用している人に、調査を実施することになった。

不審者パーカーに類する日除けファッションを身につける知人へのインタビュー

まず、Cチームは当初、「調査」についていくつかの文献にあたって調べており、前提として「何かの課題解決や仮説検証のために目的化されすぎたリサーチ」というものに強い違和感を抱いていた。そこで、「目的化しない調査」「答えを出すのではなく、次の問いを生む調査」が重要であると考え、取るべきアプローチとしては以下で言うところの「質的調査」が適しているだろうということで一致した。

次の問題はその手法である。最初、「街の中で不審者パーカーを着ている人のことを観察してみる」「気になる人がいたらそこで話しかけてみる」といった案も出たが、まだそれほど多くの人が行なっているファッションではないため、対象となる人が通りかかる偶然に賭けるのはあまりに出たところ勝負すぎると却下。そもそも、「さなぎ化」の仮説にも体現されるように、不審者パーカーは社会と自分を切り離す"見えない線"を引くためのツールとして使われている印象があったため、人によってはあえて触れてほしくないこともあるだろうという懸念もあった。そこで、チームメンバーがInstagramストーリー上で呼びかけ、インタビューに答えてもいいと言ってくれた人に話を聞くという段取りで進めることに。

Instagramストーリーで呼びかけると、数時間以内に3名から返信があり、「不審者パーカー」そのものではないものの、それに類するヤケーヌなどの日除けファッションを行なっているとのこと。そのうち2名とはインタビューの時間が取れたため、個人的に話を聞かせてもらうこととなった。なお、この2名は本来知人ではあるのだが、今回の調査の趣旨を鑑みて別々にデプスインタビューを行うスタイルをとった。 なお、目的化しないリサーチを掲げているものの、上述の通りすでにある程度の仮説は持っていたため、普段の日除けファッションに関する行動を聴取する他に、我々の中でいくつかのKey Questionを用意しておいた。

  • 不審者パーカーを着ている時と着ていない時とで、気分や行動に差はある?
  • そのスタイルで、近所で知人と会ったらどうする?
  • 同じスタイルの人が前から来たとき、どう思う?

では以下に、プライバシーに触れない範囲で、二人のインタビューについて簡単にまとめたい。

【対象者1人目 Aさん】

  • 属性:30代女性
  • 日除け装備:UVカットパーカー、ヤケーヌ(日除けケープマスク)、帽子or日傘
  • 導入時期/背景:美容医療の効果を無駄にしたくない&結婚式を控えているので美白ケアの最終手段として。
  • 体感・機能評価:着ていると涼しく快適。化粧品や美容医療と比べてコスパもよく、機能的・合理的だと感じる。
  • 使用シーン:ひとりで駅に行く時など。ただ今年は太陽が例年より気になってしまい、そもそもおでかけの頻度自体が落ちてしまった。
  • 日除けフル装備時の気分・行動:意外とここまでの装備をしている人が少ないので悩みつつ着ている。見られたくないので、下を見ながら歩く。
  • 周囲からの反応:夫からは「やりすぎ、隣を歩きづらい」と言われる。日焼けを気にしていることが(過度に)伝わり、おでかけ機会もやや減って申し訳ない。
  • もし知人に出会ったら…:下を見て歩いているので、もしすれ違ったとしても気づかない。
  • 目の前から同じ格好の人が歩いて来たら…:(自分が着ていたとしてもあらためて見ると)大袈裟すぎる。どうしたんだろう?と思う。すれ違う時、ちょっと怖さも感じる。
  • 自己認識:スキンケアも美容医療もやっているのに、自分でも「頑張りすぎ?」と思う。これ以上の対策はない"最終手段"感がある。とはいえ、すっぽりと目まで隠れる「不審者パーカー」よりは軽めの装備。自分はそこまでではないと感じている。
  • 今後の継続意向:この装備を一度味わってしまうと、地面からの照り返しが気になるようになってしまった。結婚式が終わっても、来年もつけ続けるかも。

【対象者2人目 Bさん】

  • 属性:30代女性
  • 日除け装備:UVカットパーカー、ヤケーヌ(日除けケープマスク)、帽子、アームカバー、たまにサングラス
  • 導入時期/背景:もともと帽子やUVケアパーカー、アームカバーなどの対策はしていたが、コロナ期にマスクをすることの抵抗感がなくなり、ケープマスクに手を出すように。幼少期から母も出かける時は同じような装備をしていたし、実際にそれで美白だったこともあり効果に説得力があった。
  • 体感・機能評価:美白ケアできるし「めっちゃいい」。ほぼマスクの使用感。
  • 使用シーン:スーパーもお出かけもデートも会社も着けていく。ディズニー、万博にもこの装備で行った。建物の中に入ったり、写真を取る時は外す。
  • 日除けフル装備時の気分・行動:小さい声で歌ったりできるので、少し気が大きくなることはある。見られていても怖くない感じがする。
  • 周囲からの反応:「暑そうだね」とたまに言われる。夫も日傘を使っているし、特にコメントされたことはない。
  • もし知人に出会ったら…:会社もこの格好で行っているので全く気にならない。
  • 目の前から同じ格好の人が歩いて来たら…:仲間だ!と思う。ただ、同じような格好の人が増えているとそこまで感じたことはない。
  • 自己認識:道ゆく人にどう思われようが、目的地に着いたら普通の人だから。逆に、全身一体型だし、「不審者パーカー」は目的地に着いても変な人に見えてしまうと思う。あと、目を隠すのは一線を超えている気がする。その意味でも「不審者パーカー」と自分の装備は違う。
  • 今後の継続意向:今後も、お出かけが増えるGWあたりから9月中旬まで同じ装備で過ごすと思う。

各30分と短いインタビューではあったが、2人のインタビューで興味深かったのは「境界線の認識」であった。たとえば「目が隠れている/隠れていない」の境界線。目が覆われていると不審者であり、目が露出している限りは不審ではないという認識は2人の間で共通のように感じられた。また、「どこからどこまでが"自分"なのか」という境界線。Aさんはヤケーヌなどのケープを被った自分は、その装備も含めて"自分"である(だからこそ、ケープを被っている時は人に会うのが恥ずかしい)のに対し、Bさんはこれらの装備と自分を完全に切り離しており、「脱いだ"中の自分"さえ普通であれば問題ない」と割り切っていた。また、「本物の"不審者パーカー"(目まで覆われるパーカー)」と「それに準ずる装備」との境界線も強く意識されていた。「自分はあそこまで"不審"ではない」という認識が、ヤケーヌなどの装備が広がりつつある背景にあるのではないだろうか。

インタビューを行って(仮説の深掘りと今後の兆し)

当初我々は、いわゆる「不審者パーカーを着ることによる日焼け防止」と「ヤケーヌなどのパーツを組み合わせて行う日焼け防止」は流派こそ違えど、ほぼ同じカテゴリーに分類可能な行為であり、マーケティング的には一括りにすることができるターゲット層だと考えていた。 そのため、不審者パーカーを入り口に取りながら、身近なヤケーヌ愛用者にインタビューを実施する、というプロセスを特に疑うことなく歩んできたのだが、話を聞く中で当事者は異なる認識を持っていることが徐々に明らかになってきた。

  • 「一線をこえない」「合理的な選択」としてのヤケーヌ

少なくとも、ヤケーヌ愛用者たちは自分たちのことを、不審者パーカー愛用者と明確に区別しており、自分たちと彼らの間に「明確な一線」の存在を認めていたのである。 「ヤケーヌなどのパーツを組み合わせて行う日焼け防止」では、それらの内側には「自分らしい夏の装い」を仕込んでおくことができ、必要な場面においてはすぐに「いつもの自分」に戻ることが出来る一方で、不審者パーカーは、一度着てしまうと簡単には「いつもの自分」には戻れない、もう一度自宅のクローゼット前からやり直さないと「不審者パーカーを着ている私」からの転生は叶わない。 ヤケーヌ派においては、そのような「ある一線」を超えない範囲で、年々鋭さを増す真夏の日差しから自身の肌を物理的に強固に保護・温存している、同時にいつもの自分にすぐに戻れる帰り道も手放さない、といった非常に合理的・理性的とも言える選択の根拠の存在が明らかになってきた。 ここには塗りなおしの手間、衣類への色移り、べたつき、耐水性とクレンジング性の両立などの日焼け止めの悩みを、布で覆ってしまうことで一足飛びに乗り越えて目的を達成するというクリティカルな視点も感じられる。

  • ヤケーヌ着用状態は「仮の姿」

ヤケーヌ着用者の中でも、その装いをどの程度まで「自分」と考えるかグラデーションがある、という点は、インタビューで見えてきたことであるが、その姿に羞恥心をおぼえる人(=装いが自己表現になっている:インタビューでのAさんタイプ)はむしろ、我々(ヤケーヌファッションに違和感を覚えるタイプ)と近い。むしろ新たなスタイルにより対応しているという意味で着目すべきは、逡巡がないBさんのようなタイプではないだろうか。

また、ヤケーヌ派(の中でもBさんのような人)にとって重要なのは、ヤケーヌ着用状態はあくまでもワタシにとっての「仮の姿」であることであった。 ワタシが自身の姿として承認しているのはあくまでも中に仕込んである「自分らしい夏の装い」であって、決して(ヤケーヌを付けている)この瞬間はありたい自分の姿ではないのである。従ってヤケーヌ着用状態=仮の姿にワタシの痕跡はいらない。ワタシがそれらアイテムを意図的に選んだ痕跡があると、その瞬間に仮の姿が仮ではなくなり、ワタシの姿の一部として取り込まれてしまう。従って仮の姿に分かりやすいロゴや柄は不要なのである。 無個性さが仮の姿を仮のまま成立させるカギだったのだ。限界飯を食べる際にトッピングなど工夫するくらいだったら初めから普通に料理をすれば良いのと同じである。仮の姿の中に自分らしさを映しこもうとするくらいだったら初めから普通にお洒落を楽しめばよいのである。

  • 選択肢としての無個性

思い返せばビジネス文脈では自己実現や成長主義など、自分を明確化し差別化し尖らせることが推奨され、社会的にも多様性やありのままの自分、Number oneよりOnly oneとして、個性を尊重することが良しとされてきた。 もちろん会社員が全員組織の歯車としてひたすら精度と耐久性が求められていた時代への回帰を志向したいわけではない。しかし自己の確立が推奨される流れの中でちょっと疲れを感じているひとや、全体のペースにややついていけない感覚になるひともいるのではないか、そういったひとにとって無個性さを維持できるスタイルは(一時的、刹那的かもしれないが)受け皿のひとつになり得るのかもしれない。

どのような新しい価値観の兆しを読みとるか

ここまで主にヤケーヌ派の視点にたって分析を進めてきたが、「不審者パーカー」派については、実際の着用者の声をきくことができず、不審者パーカーと関わる仮説の検証は充分とはいいがたいが、いったん以下の考察を進めたい。

以前であれば怪しげなひとと受け止められがちなスタイルがいつのまにか一定の市民権を獲得し始めている現象に、新しい価値観の兆しを感じたところから本検討はスタートしている。ではこの新しい価値観がさらに普及し一般化していくとしたら、それはどのような社会へと接続し得るのだろうか。

SNSやカメラ付きのスマートフォンの普及、いつでも接続可能な通信環境の整備などによって、個人の私的な振る舞いについてもいつのまにか公に公開されて、特定・炎上などを経て社会的信用の失墜・失職などのリスクが常に付きまとうようになった。これはいついかなる時も自分が自分であることに責任を持つ必要があり、常に常識人であることが求められる、その傾向が強まっている状況ともいえる。 このような状況において、個人の特定に最も効果的と考えられる顔の露出を控えるという行動は、誰だか分からない(分かりにくい)状態を作ることができ、自分が自分であり続けなければならない状態を一旦保留することができる可能性がある。 もちろんテクノロジーによって姿勢や歩き方からも個人が特定できることはご承知の通りだが、「いまはそっとしておいてほしい」「Don't disturb」のようなパーソナルな感情に基づいた意思表示の方法として仮の姿になるという選択肢が確立されていく可能性はないだろうか。 例えば季節を問わず、仮の姿をとっているひとは非公開状態として一旦そっとしておくことが優しさであり配慮である、周囲は幕開けを待つ観客のように緞帳の裏で進められている準備に思いを馳せ、幕開け後の展開を楽しみに待つ、そんな一旦保留の余白が普及した、今よりちょっとだけスローでちょっとだけ肩の力を抜ける優しい社会へと接続していく、そんな可能性も秘めているように思われる。

ここまでの検討を通じて我々が感じた三つの「兆し」について簡単にまとめる。

兆し①:物理的な保護によって日焼け防止を実現するという、より本質的な対応策として不審者パーカーやヤケーヌなどのスタイルが普及していく(男性の日傘使用と近い)

兆し②:仮の姿には自己表現の余地がないことによって、自己表現や個人の特定に疲れたひとの受け皿となっていく

兆し③:「いまはそっとしておいて」を服装で表現できるようになることで、少しだけ優しい社会に変容していく

今回行った調査についての分析は以上となるが、この次の活動として今回得られた「仮の姿として存在することができる・受容されている」というイデオロギーの萌芽の可能性に着目し、改めて星のピックアップと星座としての整理を行い、別角度からのアプローチによって解像度を上げていく(またはピボットする)予定である。

Special Thanks: インタビューに協力してくださったAさん・Bさん

※本稿は、チームメンバー複数名の共著により執筆しています。