私にはできない。

細長い一戸建てとは、都市部でよく見られる、間口が車1台分の車幅+玄関ドアくらいしかなく、多くは3階建の、○ープンハ○スとかがバンバン建売しているアレである。ペンシルハウスとも呼ぶようだが、なんかしっくりこないので以下でも「細長い一戸建て」と呼ぶ。
子をもつアラフォー世帯主としての私は、やむを得ず消極的な選択として、恥を忍んでアレを買う未来を恐れている。

細長い一戸建てに対して感じる圧倒的な「やむを得ず」感は、一体何なのだろうか?これだけ多くの人に買われていて、所謂「ニーズ」はあると言ってよいのに、あんまりじゃないか?まるで2006年より前の「ユニバレ」と言われていた時代のユニクロのようだ。いや、ユニクロなら「ユニバレ」しなければよかったが、細長い一戸建ては隠しようがない。より悲惨だ。

細長い一戸建てを救いたい。これは、未来の私自身を救うかもしれない、極めて重要なミッションなのだ。

本検討が何を目指し、何を目指さないか

本検討は、京都大学山内裕教授らが提唱するイノベーション理論、エステティック・ストラテジーに依拠している。この理論で言うところの「イノベーション」による細長い一戸建ての救済を目指す。

ここでは理論の詳細には触れないが、細長い一戸建ての場合、

  • 狭いけど立地がいいからOK。
  • 立地の割に安い。
  • 広い家は掃除や維持費の面で大変だから、狭いほうが良い。

というような肯定の仕方は決して目指さない。

劣る面があるが良い面もあると言ったり、「広い方が良い」という既存の価値基準を逆転させて「いや、狭い方が良い」と言ったりすることは、イノベーションには繋がらない。「立地が良い↔悪い」「広い↔狭い」「高級↔安っぽい」「おしゃれ↔ダサい」といった既存の価値基準を、細長い一戸建てにおいて解体し価値転換することを目指す。

我々は何らかの既存の意味や価値に対して、何らかのモヤモヤを抱えて生きている。そしてその既存の意味や価値が撹乱されるような契機に出会うと、そこに新しい自己を感じられる可能性を見出して、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。

細長い一戸建てを新しい自己を感じられるものにする方向性の案

検討によって生まれた案から、本稿では3つを挙げてみようと思う。今人々が惹きつけられつつある新しい自己を感じる方向性のうち、細長い一戸建てで表現できそうなものをピックアップし、「◯◯という自己表現」として挙げる。それが今どんな事象において兆候として現れているかも考察する。比較的マイルドな案から始めて、ラディカルな案へと移っていく。

1. 「自分の身の丈を分かっている、そのゲームルール内で謳歌している」という自己表現

数年前までであれば、身の丈に落ち着くのはダサく、成長し続けることこそ良いという価値観が支配的だった。しかし今はそれがグラつき、反動として「身の丈を分かっていること」「ゲームルール内で謳歌していること」がクールになりつつあるのではないか?という案だ。

この方向性であれば、細長い一戸建てはそのままのものとして救済され得る。もちろん、この方向性を力強く肯定する何かの表現は必要で、それを作ることこそが難しいのではあるが。

この兆しは、20代向けメディア『このごろ』、「ケア」のバズワード化、百均のクリアポーチ財布の流行などの事象に見られる。

2. 「他者からの承認や評価を全く求めず、自分固有の価値尺度で生きている」という自己表現

数年前までであれば、多くのフォロワーを抱え、「いいね」を沢山もらえるのがまだ良いことであり、憧れの対象だった。しかし近年、インフルエンサーの価値は落ち、インプレッションが増えても以前ほど高揚せずどこか虚しい。むしろ、そういった他者からの承認や評価がどうであろうが気にしていない態度がクールになった。外部の価値には縛られず、自分固有の価値尺度で生きていく、というわけだ。細長い一戸建てを選ぶことが、その表現の場となり得る。

この兆しは、『孤独のグルメ』、東出昌大のミーム化、庭の話(宇野常寛 著)のヒットなどの事象に見られる。

3. 「他者からの理解や解釈を拒むカオスとしての暮らし」という自己表現

2のような「他者の承認や評価を求めない」地点よりも更に突き詰めた自己表現として、理解不可能なものを提示するところまでいく。

もしかしたら、2の方が他者が要らない点で3よりもラディカルに思えるかもしれない。だが、2では「他者の承認・評価が要らない」と言いつつも、他者の承認・評価が要らない「ように他者から見えること」こそが自己表現になっている。結局2にも他者の視線はあるのだ。すると、2の「他者の承認や評価を求めない」は、「他者から見て自分が素敵に見えてもみすぼらしく見えても構わない」ということになる。したがって、3のような「他者から見て自分が理解・解釈不可能な状態」は2よりもラディカルだと捉えている。

2010年頃から流行ったミニマリストや、近年の「丁寧な暮らし」においては、シンプル、ミニマル、整った暮らしが良いものとされる。しかし今既に、そういったことが洒落臭くなってきているのではないだろうか、と考えた。

もっと複雑なもの、ままならないものが渦巻きながら流れる日々を、我々はそれぞれに生きている。そんなカオスを直視し、暮らしの中に他者では理解不可能なものを顕現させること。それがクールになり得るならば、細長い一戸建てにおいて表現してみたい。

この兆しは、『PERFECT DAYS』、不審者パーカーの流行、ドコムスチャンネルなどの事象に見られる。

細長い一戸建ては救われたか?

いや、まだだろう。本稿はnon-titleメンバー4人で2時間弱話し合った内容を基に書かれているが、上述の通り自己表現の案をいくつか挙げるにとどまっている。次はこれらを細長い一戸建てに当てはめるコンセプトを作らなければならない。

また、住宅のようにあまりにも生活の基盤すぎるものに対して、既存の意味や価値を解体するイノベーションを考えることの難しさも実感した。金額が高いだけでなく、洋服や時計のように飽きたらどこかに置いておけるわけでもない。しかし逆に考えると、住宅は生活の基盤であるが故に既存の意味や価値が強固なので、それを解体したときのインパクトも大きくなるはずだ。

さてせっかくちゃんと自己表現を考えて救済しようとしてきたのだが、筆者はだいぶ安直な人間なので、もしズラッと並ぶ細長い一戸建ての外見が京都の町家みたいだったら、「洒落てるやん!」とか言ってノリノリで購入を検討していそうである。