先に結論を言おう。
「良いことを選ぶ」も「逆を選ぶ」も行き詰まった今、追求すべきは二項選択が立ち上がる地盤そのものを撤去するバートルビー/Fugitivityの政治であり、その論理形式はナーガールジュナ『中論』を分析装置とすることで形式・生産・診断の三側面から明確化され、「対案なき拒否」という古い批判を枠組みを壊さずに乗り越え、「新たな立場への硬直」を自ら点検しうるものとなる。
このまっっっったく意味わからん話を、大真面目に論じつつも、「集合写真」のアナロジーでなんとか伝わるように書けないか…!と格闘したのが本稿である。
1. 「良いことを選ぶ」も「逆を選ぶ」も行き詰まった今
SDGs、ESG、DEIなどに象徴されるような「正しいこと/良いこと」を選ぶ姿勢は、だいたい2004〜2016年にかけては支配的価値で、「私は正しいこと/良いことをする」的な自己表現が力を持っていた。
それに対して、2010年代後半以降からはwokism批判が台頭する。中身なき疑似活動への糾弾や、特定階層の価値観を強要することへの反発が盛り上がり、2024年のトランプ再選を象徴的契機として「良いことを選ぶ」資本主義の限界があらわになった。
当の「良いこと」サイドの応答にもその流れは現れている。つい先頃も、靴にカーボンフットプリントを刷り込み「サステナブルな上場」を誇ったAllbirdsが、その靴事業を売り払ってAIコンピューティング業への転換を発表した。発表の日、株価は数百パーセント跳ね上がった。掲げていた「良いこと」は、儲からなくなれば脱ぎ捨てられたわけだ。まるで靴のように。
ところが、トランピズム的な「逆を選ぶ」ことが勝利したかというと、そうでもない。「逆を選ぶ」ことは表面的には正しさを破壊する姿勢だが、内実としては政治的諦念、というかヤケになっていると言っていいだろう。少なくとも、何かを肯定する実質的な形式は持っていない。
というわけで、「良いことを選ぶ」も「逆を選ぶ」も両者ともに行き詰まってる感がすごい。
これを早速「集合写真」で喩えてみると、カメラマンがシャッターを切るときだけ笑顔をつくり(良いことを選ぶ)、その直後に表情を緩めるのには「なんだかなあ…」と思っていながら、かといって笑顔をつくらず露骨に不機嫌な顔をする(逆を選ぶ)のも微妙…という状態だ。なのに、我々の政治-経済生活の大半は、しょっちゅうシャッターを切られる(正しい選択を求められる)集合写真のような営みである。
2. 笑っても、不機嫌に写っても、集合写真から出られない
「良いことを選ぶ」ことの欺瞞が典型的に現れているのが、フランスの公立学校での「これ見よがしの宗教的標章」禁止法(2004年、事実上ヒジャブを標的とした)をめぐる、リベラルな寛容の姿勢だ。
法律は明示的に着用を禁止するが、その背後では「あなたは本来自由なはずだから、自発的に脱ぐべきだ」という寛容のメッセージが並走する。スラヴォイ・ジジェクが見抜くのは、この「自由な選択」が初めから仕込まれた強制された選択だということだ。脱ぐ女性だけが「自由な選択を正しく行った者」として承認され、ヒジャブを帰属の証として脱がない女性は「ファンダメンタリスト」と名指されて一段下に置かれる。善意の顔をした寛容が、人を脱ぐ方向へと追い込んでいる。
集合写真で言うとこうだ。
- 明示ルール:「シャッターが切られる瞬間に笑顔を作る」
- 暗黙の掟:「自然な笑顔ができる人は『感じのいい人』『社会性がある人』として承認される」「笑顔がぎこちない人、不機嫌に写る人は『コミュ障』『協調性なし』のレッテルを貼られる」
「自然な笑顔」も、本当は自由でも自然でもない。「笑うべきだ」が善意のふりをして迫ってくる。
こうした善意の強制が見透かされるにつれ、「良いことを選ぶ」こと自体が白々しくなった。「良いことを選ぶ」資本主義の急減速は、この欺瞞がバレた結果でもあるだろう。
しかし困ったことに、逆を選んでも抵抗にならないのだ。
ジジェクの『パララックス・ヴュー』(原著2006, 山本耕一訳, 作品社, 2010)によれば、「私はAかBを選ぶ」と言うことは、選択より手前でA/Bという分節を引き受けることだ。選ぶ行為そのものが、その二択を「従うべき現実」として再生産する。だから良いことを選んでも、その逆を選んでも、同じ枠から出られない。
wokeを高らかに宣言する人と、反wokeを高らかに宣言する人が、結局は同じ構造を温存・強化してしまうのは、まさにこれだ。
したがって今追求すべきは、
二項選択のいずれを選ぶのでも、両方を否定するのでも、第三の選択肢を提示するのでもなく、選択の形式が立ち上がる地盤そのものを撤去する応答
である。
ここで重要なのは「地盤撤去とは、枠組みそれ自体の破壊ではなく、枠組みが当の主体に対して持つ拘束力の撤去である」ということだ。
集合写真で言えば、ひな壇をぶち壊したりカメラマンを妨害したりして撮影が行われないようにすることではなく、「笑うか笑わないかの問いそのものが立ち上がる場面を、私/我々の側で素通りしてしまう」ことが地盤撤去だ。カメラマンのシャッター → 笑顔/不機嫌 → 撮り直し という連鎖そのものを、内側から空洞化する操作である。
3. 二つの応答:バートルビーとFugitivity
この応答・操作は既に二つの形で提案および実践されている。
3.1 バートルビーの政治
メルヴィルの短編『書写人バートルビー』(1853)のバートルビーが、雇用主の要求に対し次第に"I would prefer not to”(引用者訳: しないほうが好ましいのです)と答えるようになる。ジジェクが『パララックス・ヴュー』で読み解くのは、この定式が「やる/やらない」の二項選択に滑り落ちないことだ。意志(will)の問題ではなく選好(prefer)の問題にずらし、しかも何かを「やらない」と否定するのではなく、否定の対象をもたないまま「やらないこと」そのものを肯定する。雇用主の要求は、「やる」または「やらない、なぜならば…」の応答を期待しているが、バートルビーはその枠ごと脇にずらしてしまう。これは、社会の”obscene supplement”(引用者訳: いかがわしい補完物)を撤去する差し引きの政治である。
このバートルビーの不気味さは彼の台詞に留まらない。
- 目的構造への不参加:書類を写すというオフィスの「正しさ」に乗らない。
- 判定の帰結への不服従:雇用主は最終的にクビを宣告するが、それでも机を離れない。
- 空間からの不退出:オフィスから出ていかない。雇用主はオフィスごと引っ越してしまうが、彼は元の場所に居続ける。
バートルビーは判定を否認するのでも反論するのでもなく、ただ目的に乗らず、判定の帰結を引き受けず、空間に居続ける。
バートルビー的な集合写真の参加者(Aさん)はこうなる。
- 目的構造への不参加:カメラマンが「はい笑って!」とシャッターを切る間、Aさんは笑顔を作らず、ただ口だけわずかに動かしているように見える。
- 判定の帰結への不服従:カメラマンが「Aさん、もう少し自然に笑って!」と判定し、撮り直す。しかしAさんは同じことを反復する。
- 空間からの不退出:なぜ協力してくれないのかとカメラマンは困惑する。撮影は宙吊りになるが、Aさんはひな壇の自分の場所に立ち続け、撮影現場から去らない。
当然、実際の集合写真でこんな人がいたら「いいから笑ってくださいよ!」と苛立たれ、最終的には「あの人は無視して撮り直そう」となるかもしれない。
バートルビーにおいても、最終的には当局に連行される。だが彼が連行されてもなお、二択の地盤を内側から撤去するという操作の形は、確かに示されている。
3.2 Fugitivityの政治
Fugitivityの出どころは、米国の奴隷制下の逃亡奴隷(fugitive slave)である。彼らは、1850年の逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act)のもとで、北に逃げても捕獲対象、留まれば奴隷、逃亡を企てれば違法という全領域的な捕捉の中にいた。
20世紀末から21世紀にかけて、この概念は人種資本主義・植民地主義・社会的捕捉の体制への抵抗を理論化する語へと拡張された。黒人解放をめぐる思想的系譜(Black radical tradition)の中でフレッド・モーテンとステファノ・ハーニーが論じたFugitivityは、文字どおりの逃走にも、対立する力を前提とする抵抗にも還元されない、いわば「第三の何か」である。逃走は外部を、抵抗は対立する力を前提とする。Fugitivityはそのどちらも要求せず、捕捉の体制の内側で別の社会性を生きる[*1]。
「内側にとどまりながらすり抜けること」をよく表すのが、エドゥアール・グリッサンの不透明性(opacity)である。これは、被植民者が植民者のフランス語を話しながら、なお相手の尺度では翻訳しきれない事態のことだ。グリッサンが言うのは、被植民者が「理解できる=透明な存在」にされること自体への抵抗、不透明であり続ける権利である。相手を自分の尺度で測り、理解し尽くして我がものにしようとする植民者の態度の手前にとどまり、わかる/わからないのどちらにも回収されずに関係し続けることだ。
モーテンとグリッサンはここで結びつく。モーテンが自身の三部作(Duke University Press, 2017–18)のタイトルに掲げる定式 "consent not to be a single being"(引用者訳: 単一の存在ではないという同意)は、もとはグリッサンの言葉である。バートルビーの "I prefer not to" と同じで、肯定的様態(consent/prefer)の内側に否定(not to be/not to)を組み込んでいる。
Fugitivityは、バートルビー的ふるまい(目的不参加、判定帰結拒否、不退出)を、集団的かつ持続的に実演するような状態だと言えよう。
集合写真で言えば、ひな壇に並んだうちの複数人が、それぞれの仕方で「ちゃんとした笑顔」からの逸脱を繰り返しながらも、誰も「集合写真の規範に逆らう運動を起こす」わけではない。彼らは「ちゃんと笑えない人」としての集合ではなく、ひな壇の内側に別の社会性の質感を発生させている。撮影は続くが、ひな壇の中には笑顔の判定機構の枠外で機能する別のレイヤーが生まれるのだ。
そしてこれも重要なのだが、そのレイヤーは撮られた写真の中に痕跡として残る。後日出来上がった集合写真を見たとき、整然と並んだ規範的笑顔の中に、遠くを見ている目、儀礼的ではない肩の触れ合い方、引きつったまま固まった口角といった、ふと視線が止まる箇所がある。「正しい笑顔の整列より、むしろこちらの方が味わい深い」というように、集団的操作は写真を通して事後的に見えるようになる。
Fugitivityが単なる政治戦略ではなく美学でもあるのは、何かの中に痕跡を残すからだ。奴隷の労働歌、ブルース、ジャズの即興、ヒップホップは、政治的ふるまいであると同時に、痕跡として聴覚に残るアートだった。
バートルビーとFugitivityは論理的操作においては共に、選択の枠組み自体は引き受けた上で、その枠組みが要求する応答、すなわち二項のどちらかを自分の立場として選び取ることを撤去する。
以下、両者を合わせて指すときはB/Fと表記する。
4. ナーガールジュナ『中論』という分析装置
B/F政治は地盤撤去を現に実演している。もし本稿が付け加えうるとすれば、それを正確に言語化し、擁護し、自己点検する手立てだ。
そこで、B/F政治のロジックに形を与える分析装置として、ナーガールジュナ『中論』(一部は彼を祖とする中観派の理論から)を持ち出そう。
本章では、まず本稿で用いる上での『中論』の核心を示した後、それを集合写真の場面に当てはめて四句分別の四状態を一つずつ見分け、最後に前章のバートルビー/Fugitivityを『中論』的に記述しなおす。
2章で「今追求すべき」としたのは、「選択の地盤そのものを撤去する応答」だったが、『中論』はその地盤撤去に論理の形を与えるのだ。核心は、撤去すべき地盤がそもそも自性(じしょう)をもたないということである。
なぜそう言えるのか、以下で根拠、操作、歯止め、担保に分けて重要な概念を説明していく。
- 根拠(無自性・縁起・空):全ての事物は自性(じしょう:独立の固有本質・自己原因)をもたず、関係の中ではじめて現れる(縁起)。この「自性をもたない」事態を空(くう)と呼ぶ。これは「現実は実は関係的だ」という経験的観察ではなく、「自性という概念は『独立性』を要求するが、概念の内容は他から区別され関係づけられることで、すなわち『関係性』の中ではじめて定まるので、『関係から独立した内容』を説く自性は概念として自己矛盾している」という概念分析的主張である。
集合写真で言えば、「正しい笑顔」という型は、「不機嫌」や「ぎこちなさ」と区別されてはじめて「正しい笑顔」でありうる。他と関係なく、それ自体で中身をもつ「笑顔」など、どこにもない。これが「自性をもたない」ということだ。地盤(自性)を撤去できるのは、もともとそれが概念として成り立っていないからだ。 - 操作(四句否定):「無自性にして空」が任意の命題Aに対してどう働くか。四句分別、すなわち(1)Aである、(2)非Aである、(3)Aであり非Aでもある、(4)Aでも非Aでもない、の全てを斥けるのだ。重要なのは、斥ける側が対立命題を立てるわけではない点だ。(1)~(4)が自らの前提(Aと非Aを自性ある項として立てること)の上で自壊することを示すだけである(帰謬)。そのため、四句否定は新たな立場を一つも取らず、Aと非Aが分節される地盤そのものを払う操作になる。
- 歯止め(空の空):『中論』13.8「一切の執着を取り除くために、勝者(仏)たちによって『空』が説かれた。しかし『空そのもの』が存在するという見解を持つ人については、救いがたいとも述べられたのである (清水高志『空の時代の『中論』について』 IAAB EDIT, 2025, p.213)」。自性批判から導かれる「空」それ自体を、新たな実体・正しい立場・自己原因として扱ってしまったら、批判が反転して自壊する。だから空は、四句否定の果てに残る第五の立場ではない。空もまた空である。
- 担保(二諦説):以上が虚無主義ではないことを二諦説が支える。究極的真理(勝義諦)は、慣習的世界(世俗諦)の外にある別世界ではない。世俗の事物がそれ自体としては自性をもたない、というその空のことだ。だから勝義諦と世俗諦は対立も上下もなく、片方だけでは成り立たない仕方で相互に支え合う。『中論』24.14「空性が妥当するものに対しては、あらゆるものが妥当する (同書, p.412)」。関係的に成立しているからこそ、変化することも機能することも可能になる。よって世俗諦は否定されない。これが「地盤撤去≠枠組み破壊」の『中論』版である。
まとめると、撤去されるのはAと非Aを分け隔てる形式的地盤(自性、独立性、排中律的な分節)そのものである。
次に、四句分別の四状態を、集合写真でシャッターが切られる瞬間の姿勢に対応させてみる。
- Aである (笑う):シャッターが切られる瞬間、儀礼的に正しい笑顔を作る人。良き市民。明示されたルールに従う姿勢。
- 非Aである (笑わない):不機嫌な顔、無表情など、笑っていない顔で写る人。明示されたルールに従わない姿勢。
- Aであり非Aでもある (笑っていて、かつ笑っていない):(やや変則的だが)口は笑っているが、目は全く笑っていない人。A(口=笑い)であり、かつ非A(目=笑わず)[*2]。
- Aでも非Aでもない (笑うのでも笑わないのでもない):「『笑う/笑わない』という述語は、今の自分には届かない」とふるまう人。カメラマンの「笑って!」も、自分宛ての呼びかけとして受け取らない。笑うのでも、逆らって笑わないのでもなく、その問いの土俵にそもそも乗っていないという構え。
『中論』はこれら四つを全て斥ける。(4)も例外ではない。まず論理においては、「Aでもない、非Aでもない」と両方を否定するには、Aと非Aを確定した項として握っていなければならない。だから(4)もまた、(1)〜(3)と同じくAと非Aの分節を地盤として前提としている。
その上で、(4)には固有の厄介さがある。「『笑う/笑わない』の述語は私には届かない」という言い方は、一見、Aと非Aの分節を手放しているようにも思える。違いは、どこに「私」を置くかだ。「Aでも非Aでもない位置にいる私」をひとたび立てれば、素通りではなく(4)の立場を握ったことになる。その瞬間、それは手放すべき立場に変わる。
したがって、集合写真の真の姿勢のとり方は、(4)を取ることではない。(1)〜(4)のどの立場も取らず、しかも「どの立場も取らない私」さえ立てずに、四つの分節そのものを素通りすることである。
前章で見たバートルビー/Fugitivityのふるまいは、この『中論』のロジックによって記述できる。
バートルビーの"I would prefer not to"は、(2)「やらない」(非A)ではない。雇用主の要求への否定的な応答は、肯定/否定の二項選択それ自体を温存する。バートルビーがやっているのは、Aと非Aを分節する象徴的枠組みからの差し引きであり、(1)〜(4)のいずれの述語にも収まらない引き下がりのふるまいである。
Fugitivityの"consent not to be a single being"も、応答可能な単一主体として個体化される手前の社会性を持続するふるまいのため、やはり(1)〜(4)のいずれにも位置を取らないと言える。
B/Fの姿勢は、『中論』の四句否定が開く素通り(四つの分節そのものを通り抜けること)に対応する。
そしてここから、B/F政治はもう一歩進む。四句否定が記述するのは、「地盤を素通りする」という姿勢の水準までだ。B/Fはこれを行為の水準へ押し広げる。判定が下されてもその帰結を引き受けず、目的構造に乗らず、その場を去らず、できれば集団でそうして別の社会性を立ち上げ(Fugitivity)、それを何かに痕跡として残す。姿勢としての地盤撤去を、B/Fは操作・別の社会性・痕跡という三つの層で実演するのだ。
さて、ナーガールジュナ『中論』によってB/F政治の論理形式を体系的に記述したが、それで何が変わるのかを次章で示そう。
5. 『中論』によってもたらされた三つの明確化
5.1 形式的明確化
前章で見た通り、B/F政治の論理形式は、四句分別とそれらの否定で記述できた。
バートルビーの「差し引き」も、モーテン/ハーニーの「逃走でも抵抗でもない第三の何か」も、もとは否定形や名づけがたい何かとしてしか語れなかった。それを、ナーガールジュナが空の論証に用いた四句否定という論理操作として示せる。神秘でも気分でもなく、形式で語ることができるのだ。
(ただし、こう正確に語れたことに胸を張った瞬間、その「正しく素通りできている私」が、5.3で扱う罠になる)
5.2 生産的明確化
二諦説は、B/F政治が共有する両立困難な要請に構造的解決を与える。
Fugitivityの政治なら、具体的政治運動として識別可能でありたい。バートルビーの政治なら、拒否を反復し続けたい。だが、B/Fともいかなる固定的アイデンティティにも収まりたくない。これらの困難な両立を、二諦説に基づくことで成せるのだ。
世俗諦の見方において、具体的実践・場所・主体は機能する。それはマルーン共同体(逃亡奴隷たちが植民地体制の外で形成した共同体)、アンティル諸島のクレオール化、ヒップホップの特定の技法、特定のオフィスで反復される定式、撮影現場の特定のひな壇などだ。勝義諦の見方において、それらは自性をもたない。かつ、両者は階層化されない。
世俗諦に偏るとB/F政治はすぐに「我々はX主義者だ」「私は拒否者だ」というアイデンティティに固化する。勝義諦に偏ると「全ては関係的だ」という空虚な達観に陥る。両者の支え合いこそが、B/F政治を「具体的な実践として続けながら、自分自身を絶対化しない」ものにできるロジックなのだ。
これは、あらゆる拒否が必ず投げかけられる「で、対案は?」という詰問への応答にもなる。この詰問は、拒否を「何かを欠けさせる否定」とみなし、欠けさせた分を対案で埋めろと迫る。しかし、そもそもその要求は、既に撤去したはずの選択の地盤、つまり「何かを選び、提案することだけが有効な応答だ」という前提を、もう一度持ち込もうとする。だからそれは、答えるべき問いではなく、撤去したはずの地盤を戻そうとする要求にすぎない。
肝心なのは、この撤去が虚無主義ではないことだ。ここで二諦が効く。要求が消えた後にすべきは、新しい対案を差し出すことではない。同じ世界を自性なしに引き受け直すこと、すなわち、世俗諦としては具体的に続く世界を、勝義諦としては自性なきものとして生き直すことだ。これは「対案の欠如」でも「新しい対案」でもなく、二諦の支え合いそのものである。
そしてこれは、集団にかぎらず単独のバートルビーにも及ぶ。世界を生き直す当人が最後に連行されて消えても、その拒否は何かを欠けさせる否定ではなく、関係の場に立ち上がった一つの事象として(縁起)、続いていく世俗諦の世界のただ中に残る。
更に、このふるまいが集合に拡張されたとき、つまり単独のバートルビーではなく集団的なFugitivity(や集合写真)においては、「同じ世界の生き直し」はもう一段見えやすい形をとる。
複数の主体が地盤撤去された「空」において互いに応答し合うとき、枠組みが空けた場所に別の社会性が立ち上がる。これは相互の応答が事後的に形をとり、世俗諦に現れたものだ。とはいえそれは、誰かの所有物でも固定したアイデンティティでもない(勝義諦)。マルーン共同体、モーテン/ハーニーのブラック・スタディ、ヒップホップの生成的場が、その歴史的実例である。
実例の中でもブラック・スタディは、この別の社会性の内実を最も近くで見せてくれる。モーテン/ハーニー『The Undercommons』(Minor Compositions, 2013)が描くのは、彼らが”subversive intellectual”(筆者注: 体制に忠実な専門職には収まらず、内側から掘り崩す者)と呼ぶ、大学に身を置く者のふるまいだ。
大学に身を置きながら、その専門職的役割を引き受けない。大学を延命させようとも変革しようともしない。かといって大学を出ていくのでも、正面から闘うのでもない。彼らは、大学に忍び込み、盗めるものを盗み、そのもてなしを濫用し、使命に逆らいながら、それでも出ていかない。”in but not of”、つまり「大学の中にいるが大学のものではない」。
この、捕捉の体制の内側にとどまったまま帰属しない関係性こそ、彼らがアンダーコモンズ(undercommons)と呼ぶものだ。賛成でも反対でも棄権でも沈黙でもない。集合写真のひな壇にいながら(世俗諦)、ひな壇のカテゴリーがどうしても貼り付かない(勝義諦)ような状態である。
5.3 診断的明確化
「空の空」のロジックは、B/F政治が陥る罠を構造的に診断できる。
バートルビー的拒否が「拒否者というかっこいいアイデンティティ」になる罠、Fugitivityのアンダーコモンズが「捕捉から逃れた特別な場所/特別な主体」として担ぎ上げられる罠である。そうなってしまうと、アイデンティティ・場所・主体が自性をもつと錯覚(以降「自性化」と呼ぶ)し、新しい二項分節(拒否する者/しない者、覚醒した逃亡者/捕捉されたままの大衆)が再導入される。
集合写真で言うと、「私はカメラマンの判定に乗らない人だ」「私は『笑う/笑わない』の述語が届かない次元の人だ」などと内的に呟いた瞬間、自性化の罠によって集合写真のB/F政治は終わる。
また、この罠は目立たぬ形でも作動する。周囲が「あの人いつもああだよね」と認識し、「写真苦手キャラ」「コミュ障キャラ」として社会的に承認されてしまう。脱-カテゴリのふるまいだったはずが、新しいカテゴリに再収容されてしまう。それでは地盤撤去とは言えない。
とはいえ、これは『中論』がB/Fを上から目線で裁いているのではない。診断装置(空の空)が指す自己反転を、B/Fはすでに自前で内蔵している。
バートルビーの政治は、意味のある宣言ではなく、ほとんど機械的に同じ言葉が反復されるだけだ。この反復そのものが、「拒否者の立場」の固化を構造的に防いでいる。モーテンの"consent not to be a single being"は、Fugitivity自身を「単一の存在=自性をもつ主体」にしないという誓いを組み込んでいる。
B/Fは既に、自身が自性化されることへの抵抗を内蔵しており、そのことも『中論』を用いることでより明確になる。
ただし、この内蔵ブレーキは個人のものでしかない。集団のスケールでは、自己反転を防ぐブレーキも、別の社会性を生む力も、放っておいては働かない。
集団において罠に陥った例として、「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street, 2011–12)の合議形式の物象化がある。”general assembly”や”human microphone”といった合議手続きは、当初は代議制の地盤を局所的に撤去する操作だった。しかし運動が続くうちに、「Occupy的な正しい合議形式」自体が新たな正統性の基準として固定化し、決定遅延・少数派ブロックの恒常化を招き、運動の機能不全に寄与してしまった。「我々は階層をもたない」という自己規定が、運動の自己批判を封じる新たな暗黙の掟に転化したのだ。
地盤撤去の成功も、生み出された別の社会性も、操作の論理形式自体では保証し切れない。空の空による自己診断が現実的に機能して初めて、それは力をもつ。
6. 結論:何が変わったのか、そして書いた時点でNGな私
「正しいことを選ぶ」も「逆を選ぶ」も詰んでいる、というのは政治哲学的な観察である以上に、我々がまさに実感している事態だろう。SDGsアピールする企業も、それを「ポリコレだ」と批判する側も、二項選択の枠組みの中で対立している。
第三の選択肢を提示しても再吸収される。撤退すればただの諦めだ。とるべき道は、選択そのものの地盤を撤去し、判定の帰結を引き受けず、なお空間に居続けつつ、できれば集合的に別の何かを起こし、それを残すこと。すなわち、操作の様態そのものを生きることだ。枠組みは続くが、当の主体には貼り付かない。バートルビーはその形式を一編の物語に刻み、Fugitivityは歴史のなかで反復してきた。
そんなB/F政治に『中論』を用いた本稿によって、三つのことが変わる。
第一に、語り方が変わる。名づけがたい何かや気まぐれな拒否としか言えなかったふるまいを、四句否定という一つの論理操作として示せる。
第二に、「対案を出せ」という要求が外れる。それは答えるべき問いではなく、撤去した地盤を戻そうとする要求だったからだ。
第三に、自己点検ができる。拒否が「拒否者というキャラ」や「覚醒した側の正統性」へ固まる転落を、空の空が内側から見抜く(診断はチェックリストとして付録にした)。
どれも『中論』がB/F政治に代わって何かをするのではない。だが『中論』によってこそ、これらが可能になったのだ。
とはいえ、そもそもB/F政治は記述し切れないからこそB/F政治なのである。かつ、まさに本稿で用いた「空」は本稿それ自体にも及ぶ。したがって、この分析を完結した正しい記述として握りしめてはならない。
ただ、単にその点が本稿の限界だと示したり、B/Fを「語りえぬもの」として神秘化したりするのは違うとも言っておきたい。二項の地盤撤去の後に残るのは沈黙ではなく、論理形式では掴みきれない「感性的な過剰」だ。
Fugitivityの過剰は、生成的なものである。それは例えば、ブルースの一声や、寄り集まった複数の身体が立てる別の社会性の手触りだ。モーテンが言うように、こうした音は意味へと還元されない。論理を拒んで外に出るのではなく、論理を内側から切り、つくり変えながら、なお過剰を残す。
バートルビーの過剰は、退いていくものの方にある。"I would prefer not to"の反復を、本稿のロジックは「素通り」として形式化した。だが、その言葉が読む者を捉えて離さない理由をいくら数え上げても、あの不気味な引きは尽きない。この過剰は生成する豊かさではなく、誰にも掴めないままただ連行されて消える一人の不透明さだろう。
B/Fの過剰は、「論理の外にある自由な領域」として扱ってはならない。外を立てれば、また内/外の二項が戻ってしまう。感性的な過剰は、集合写真の規範的な笑顔の列のただ中にあって、列を内側から切り開くのだ。だから、出来上がった写真を見て誰がどんな顔をしているか全て説明し尽くしたとしても、それでも視線が止まり続ける。
本稿は、その写真につけた長いキャプションに過ぎないと言えるだろう。B/F政治は、キャプションでは閉じられずに切り開かれ続ける、その切り口によって駆動される。
だが一方で、『中論』によってその切り口の形を精密に描き尽くそうとしたからこそ、その形に収まらないものとしての過剰が見えるようになったとも言えないだろうか。…言えたらいいな。
まあ私はせめて、自分を「二項選択を素通りできている側」だと名乗らないよう気をつけようと思う。
付録:自己診断チェックリスト
5.3で触れた「空の空」による自己診断を、運動や個人の実践に落とし込むと、次の四つの問いになる。
問いへの答えが「はい」ならば、その局面で地盤撤去が反転し、新たな自性化された立場へ転落しかけているサインである。
1. 自分(主体)を固めていないか
「我々はXである」「私は拒否する者だ」という自己規定が、動かせない前提になっていないか。とりわけ巧妙なのは、「私はこの罠を見抜いて、ちゃんと素通りできている」という自己診断それ自体が、新しい特別な立場として固まる場合だ。
集合写真版:「私は写真嫌いだ」あるいは「私は判定を見抜いて素通りできている側だ」と、自分を固定していないか。
2. やり方・型を固めていないか
二項分節を撤去するために導入したやり方や型を守ること自体が、新しい正しさの基準に固まっていないか。あるいは過去の成功事例(あの拒否、あの運動)を「正しいやり方」として神話化し、今の状況への応答を縛っていないか。
集合写真版:ひな壇の内側に生まれた「正しい逸脱の作法」を守ること自体が目的化していないか。「あの時の私の素通りは完璧だった」が、今の撮影現場への応答を縛る足枷になっていないか。
3. 新しい二項(我々/彼ら)を立てていないか
運動の同一性を支える語彙(「我々は覚醒している」「我々は同志、彼らは敵」)が、結局また二項分節の地盤を再導入していないか。
集合写真版:「味わい深く写れる私と、規範的笑顔しかできない凡庸な大衆」という二項を、自分の中で立てていないか。
4. 場所・共同体を特別視していないか
地盤撤去によって空いた場(別の社会性、アンダーコモンズ)を、「捕捉から逃れた特別な聖域」として担ぎ上げていないか。場が自性化した瞬間にそれは「外」になり、また内/外の二項が戻ってくる。
集合写真版:ひな壇の隅に生まれた別のレイヤーを、「あそこだけは判定の外にある自由な場所」として特別視していないか。
脚注
- Fugitivityという概念の歴史的重みは、奴隷制・植民地暴力下の生死の現実に根ざしている。これを現代日本の集合写真の場面に引き下ろす本稿は、ある意味で歴史を軽量化してしまう。これは正当な批判で、本稿はこの罪を引き受けたうえで、論理形式の相同性に焦点を当てる選択をしている。軽快に書かれる部分の背後で、Black radical traditionの重さが消えていないことは念頭に置いていただきたい。
- 厳密には、(3)は同一観点での「Aであり非Aでもある」を指す。この例は口と目で観点がずれているので本来の(3)ではない。枠内に合う具体をうまく作れず、観点をずらして代用した疑似的な(3)だと断っておく。