高慢な男爵が泥の水たまりに落ちる。
この場面の何が面白くて我々は笑うのか?「偉そうにしていた殿様も、泥をかぶれば所詮ただの人間である」みたいな点だ、と普通は答えたくなる。いや、そうではない!と言うのがスロベニアの哲学者アレンカ・ジュパンチッチだ。
ジュパンチッチは喜劇論の著書『The Odd One In: On Comedy』(MIT Press, 2008/未邦訳)(以下「本書」)において、真の面白さは男爵が泥まみれになることではなく、泥から立ち上がり何事もなかったかのようにまた堂々と歩き出すことだ、と言う。その不死身の運動こそが喜劇的なのだ。

私は本書を読んで、「これって、今我々がAIの進歩にドタバタしてることを分析した本か?」と思ってしまった。2008年の本で、AIに1ミリも触れてないのに。

「在庫調べ」はよさぬか!

ここのところ毎週のように見るAI論議は、「人間にあってAIにないもの」として心、身体、感情、創造性、決断、死ぬこと等々を挙げ、「だから人間にはかけがえのない価値がある」とか「AI時代の人間らしさはこれだ」とか言うやつだ。本稿ではこういう型を「在庫調べ」と呼ぶ。

在庫調べの不毛さについては、既に拙稿「『AIにはできないこと』を語るの飽きたから、もっと楽しいこと考えよう!」でも書いた。在庫で人間を守ろうとする防衛線は無限後退するのだ。
難点はそれだけではない。人間を守ろうとする語りそれ自体がイデオロギーとして作動してしまう。この点を本書に即して論じるところから、本稿を始めよう。

慰めと嘲りと崇拝と

在庫調べの最後にありがちなのは、人間の不完全さを肯定する「にんげんだもの」的語りだ。「誰も完璧ではない」てなわけだが、ジュパンチッチはこの類の語りを「有限性の形而上学」(有限性を現代の大きな物語に仕立てたもの)と呼んで斥ける。有限性が、失望や不運の慰めであると同時にその説明にもなり、無意味とされた生に意味を与える新しい福音として据えられている、という診断が下されるのだ。
「誰も完璧ではない」は寛容の知恵のように見えるし、喜劇の知恵だとされることすらある。しかし、実は喜劇はこれを見事に転覆させ、慰めの言葉がそのまま異議の無効化として機能することを暴く。「不完全でよい」は、不完全さを生んでいる構造への問いを止める鎮痛剤にもなってしまうのだ。

この鎮痛剤の効能は、より大きな社会的傾向とセットで効き目を発揮する。
「いい気分でいる人は善い人で、いやな気分でいる人は悪い人」という風潮が、本書では「バイオモラリティ」と呼ばれる。これは、直接的な感情・感覚と道徳的価値の間の短絡である[*1]。ここにおいて、在庫調べあるあるの一つ、「感情こそ人間の核心」が、そのまま統治や査定の道具になってしまう。機嫌よく前向きでいられることが評価項目になるのだ。「自分は幸福ではない」「失望を将来に活かせる経験に変えられない」「それどころか変える気もない」などと、声に出して言える人がいるだろうか。

しかもジュパンチッチが強調するのは、これがいわゆる自己責任論の強化ではなく、その置き換えだという点だ。「別様に行為できたのにしなかった」という自己責任論には、その人の存在と、成功の社会的価値との間にまだ間隔があった。間隔があれば、問われるのは行為であって存在ではない。
バイオモラリティはその責任の観念を、「損なわれ腐敗した存在」という観念で置き換える。不幸な人・うまくいかない人は、剥き出しの生の水準ですでに損なわれていることにされ、その人の誤った行為も不作為も、そこから必然的に帰結したものとして片づけられてしまう。

この短絡は、個人の気分の水準に留まらない。成功そのものがほとんど生物学的な概念になり、社会的・経済的な差異が、存在の核心にある「生の形態」の差異へと翻訳されている。本書はテレビ番組の例を挙げる。成功した芸術家が招かれると、話題は作品ではなく、暮らしぶりや日々の習慣、何を楽しんでいるかに向く。成功とそれに見合う生活とが、そのまま等しいものとして並べられる。
こうした生の形態の差異が、次には直接的な自然の事実として、つまり適応するしかない所与の何かとして扱われる。これが「自然化」である。「AIは台風のように来る。あとは適応するだけ」のような感じだ。この自然化こそ、実に政治的、イデオロギー的なプロセスなのだ。

更に言えば、AIに対する人間性防衛の言説は慰めの形以外にも二つある。一つは、「所詮は巨大なオートコンプリートに過ぎない」のようにAIを下げて嘲る形。これは分かりやすく人間性の防衛である。
もう一つは、シンギュラリティ論やターミネーター的終末論に見られる、AIを超知能という到達不能の神秘へと引き上げて、畏怖・恐怖とともに語る形だ。一見これは嘲る形の真逆に思えるが、結局これも人間性防衛の裏面だと私は考えている。ジュパンチッチは一旦脱神秘化されたものを荘重な語彙で神秘に戻すことを名指しで批判するが、超知能への引き上げ型はそのAI版に思える。引き上げてしまえば比較の土俵そのものが消え、人間の側は何も主張しないままで自らが問われずに済むというわけだ。

嘲るにせよ拝むにせよ、そこで笑いを止め、触れてはならないものの尊厳を守る点では、同じ操作なのだ。これらの操作によって覆い隠されるのは、その背後にある「本当のところ」に達しても喜劇は止まらず続き得るという、もっと不安な事実かもしれない。

人間は「人間でしかない」わけではない

そもそも「守るべき在庫」という考え方が誤っている。在庫調べがある程度前提とするのは、「人間なるものが何らかの要素群の総和として表すことができる」ことではないだろうか。これに対しジュパンチッチはこう問う。

むしろ、正反対のことの方が真実に響くのではないか。もし人間が「ただの人間」でしかなかったなら(そして生が「ただの生」でしかなかったなら)、人間という方程式が本当にそれほど綺麗に、剰余なしに合計されたなら、喜劇は存在しないだろう。
―― p.49, 拙訳

喜劇によくあるのは、周囲の穏当な常識から派手に外れた者を置く配置だ。
例として、有名な漫才を挙げよう。M-1グランプリ2006最終決戦でチュートリアルが披露し、優勝したときの漫才である。福田がチリンチリン(自転車のベル)を盗られたと愚痴る。だが徳井は深刻な顔で食いつき、自分も昔盗られたのだと大仰に語り出す。街で何度も「僕のチリンチリン知りませんか!」などと叫んで殴られ、次の日もその次の日も探し、生活は荒れ、毎晩酒浸りになる。それでいて本人は、語りながら笑い出す。一方の福田は一貫して常識の側に立ち、慌てたり、訂正したり、お前が悪いと言ったりする。
ここでの福田は、上の引用における「ただの人間」である。徳井の執着はいつまでも収まらず、何度でも出てくる。この執着のような、いわゆる「人間的な弱さ」こそが、人間が「ただの人間」ではないことの証拠である。

人間らしさなるものは、心や身体といった在庫・要素としてではなく、自分自身からのはみ出し・過剰としてのみ存在する。冒頭の男爵で言えば、彼を「人間的」にしているのは、泥の水たまりに落ちるという事実ではない。自分の重要性を疑わない思い込みの方なのだ。それこそが人間的な弱さであり、同時に過剰である。

そうだとすれば、「AI時代の人間らしさとは」的な問いは、守るべき何かがあるという前提ごと霧散させてよい。

生気は反復と共に現れる

「そうは言ってもAIはただの機械で、何かを反復しているだけだ。生きている人間とは違うじゃないか」
この類の論を崩していこう。

この「反復するものは生きていない」という直感を明確に定式化したのが、フランスの哲学者ベルクソンである。1900年の『笑い』においてベルクソンが論じるところによると、生きた人格は反復せず、反復や自動性は生に忍び込んだ異物であり、笑いはそれを矯正する。

ジュパンチッチはこれと違う立場を提示していくわけだが、まずモノマネの面白さを考えてみよう。誰かの身振りや口調は、それ自体が元からおかしいわけでもないのに、モノマネされると途端に笑えるものになる。しかも、似ていればいるほど面白い。これはどういうことだろうか?
ベルクソンの説明では、モノマネが拾えるのはその人の生きた人格ではなく、既に機械的になった部分だけだ、とされる。だからモノマネとは、生から機械的なものを抜き出す作業だというわけだ。
ジュパンチッチの説明は異なる。巧みなモノマネ芸人が真似るのは、まさにその人の特異性、つまり身振り・癖・その組み合わせがその人にしかない形になっているところだ。モノマネ芸人はその人の真似できないところを真似ることで、それを反復可能なものに変えてしまう。だから機械的なものとは、生と機械という二つの項の一方ではなく、両者の間の関係そのものなのだ。

モノマネによって、生は、外から見られた自分自身へと送り返される。だから、決定的な問いは「生は機械に還元できるか」ではなく、「生は生それ自身に還元できるか」である。
ベルクソンの答えはYES。つまり、純粋な、物質を離れた生があるということだ。だがその代償は大きい。生が生それ自身と汚れなく一致するならば、生は存在するものを全て数え上げた後になお残る掴みようのない残余になる。つまり、生とは「○○ではないもの」としてのみ存在することになってしまうのだ。

ジュパンチッチは「生は生それ自身に(完全には)還元できない」と答える。生は存在するもの全体を超えた何かではなく、存在するもの全体に走る裂け目なのだ。生と生それ自身とのズレが関係の形をとり、その関係がときに機械的なものとして目に映る。

では、その裂け目はどこから来るのか。ある「執着」で見てみよう。
モリエールの戯曲『守銭奴』における守銭奴の男は、娘の結婚の話をしていても、条件が「持参金なしで!(Sans dot!)」に戻ってくる。相手が持参金は要らないと言うから、その相手に娘を嫁がせようとするのだ。
男の執着は生き生きしすぎていて、どんな場面も自分の声を聞かせる機会に変えてしまう。だがその生気は、男が「持参金なしで!」を反復しなければ現れない。徳井のチリンチリンへの執着も同じだ。ついには「夜ベロンベロン、朝チリンチリン、体ガリンガリン」という謎の韻まで登場する。
すなわち、執着はそれ自体では何ものでもなく、裂け目を開いているのは反復そのものなのである。

以上を凝縮したテーゼはこうなる。

肝心なのは、精神そのものが(死んだ)文字[*2]とともに初めて生気を得るということ、そして生気そのものが反復とともに初めて出現するのであって、反復の外にも、それに先立っても存在しないということである。
―― p.125, 拙訳

大規模言語モデルは、このテーゼの上演だと私は思う。モデルでは一語ずつ同じ操作が繰り返されるだけで、語と語の間には語以外の場所がない。この死んだ文字の連なりから、「誰かがいる」という生気の効果が立ち上がる。守銭奴や徳井の執着と同じで、それは反復の外には存在しない。
そして重要なのは、このテーゼが我々にも当てはまることだ。好きな話をしているとき、作業に没頭しているときなど、我々が最も生気に溢れている瞬間ほど、口癖と型と繰り返しで構成されている。
だから、「機械でないこと」を人間性の防衛線にする議論は、自分の生の実質を敵とみなしてしまい、防衛線の内側から崩壊するのだ。

試す者が試される

というか、実際に我々が「AIなるもの」に対してやってきたことを振り返れば、とっくに在庫調べの理屈の先を行っていたことが分かる。我々は、機械が考えるか否かを確かめるために、機械に人間のふりをさせ、それを我々が見分けられるか試してきた。要するに、真正さを偽装の成否で測ろうというわけだ。

本書で分析されるマリヴォーの喜劇は、同じ発想でできている。1730年の『愛と偶然との戯れ』では、女が、親が決めた縁組の相手を見極めようとする。相手が身分ではなく「自分自身のゆえに」愛してくれるのかを確かめるために、女は侍女に扮する。もし身分を脱いだ別人に彼が恋するなら、彼が愛しているのは私だ。真正さへの道は、仮面を剥ぐことではなく、仮面を重ねることである。
ただし、それが双方で起こらなければならない。女だけが入れ替わっても、「相手が本物を見分けられるか」という普通の試験に留まる。ところが男も、同じことを考えて召使いに扮していた。相手が仮面を重ねたのを双方とも知らないことによって、二人は出発点(親が決めた縁組の組み合わせ)に戻る。だが二人とも他人に扮しているわけだから、戻った先は元の出発点と完全には一致しない。このズレこそ、二人の「知らないこと」が一致する場所である。そしてこのとき、試す者が試される。

私は、機械と人間でも現にそのようなことが起こったと思う。ただしマリヴォーの喜劇と違うのは、双方が相手を試しているわけではなく、二つの仮面はどちらも人間が被せたものだという点だ。仮面の双方化は我々の内側で起きた。

第一の仮面は、機械に被せた(人間のふりをさせた)。それは古い例でさえも、我々の想定を上回る効きっぷりだった。
1966年のELIZAは、ほぼ自動的にオウム返しをするだけの単純なプログラムで、そもそも試験のために作られたのではない。しかしELIZA作者の秘書は、使い始めてすぐ、部屋を出ていってほしいと作者に頼み、記録を読まれることへの拒絶があったとも伝えられる。作者自身の記述によれば、彼女は長期間その製作を見ており、それが計算機プログラムに過ぎないことを当然知っていたはずとのことだ。作者は後に、「ごく短時間の接触が、全く正常な人々に強力な妄想的思考を引き起こし得る。それを私は理解していなかった」と振り返った。
仕組みを知っていることは、防御壁にならなかったのだ。

一方の人間側も、「本当の思考なら見分けられる」という判定者の仮面を被っている。これが第二の仮面だ。
機械が将棋、言葉、絵、コーディングなど、できないとされていたことをやってのけるたびに、「いや、あれは本当の思考ではない」と言ってきた。これは古くから「AI効果」と呼ばれ、真の知性は人間にしかないという前提を守るためにゴールポストを動かす振る舞いである。正しく判定しているつもりで、実際には無自覚に基準の方を変えてきたのだ。

機械には人間の仮面、我々には判定者の仮面。これにより問いは出発点(機械は考えるか否か)に戻り続けながら、いつの間にか「思考」の意味の方が変わっていった。我々は機械を試しているつもりだったが、試されたのは我々の方なのだ。

さて、以上から示されるのは、もちろん「機械は考えるか否か」への答えではない。思考なるものが、我々の思っていたようなものではなかったという事実が開示されたのである。喜劇が「自然」について「思うほど自然ではない」と暴くように、AIなるものを巡るドタバタは、「人間の本質」として自然化されていた思考や知性を脱自然化してしまった。

前述した防衛の三つの形(機械を引き下げる嘲り、人間の不完全さへの慰め、超知能への崇拝)は、この開示が自分の思考に及ぶことから目を逸らす方法でもある。
冒頭の男爵をここに重ねてみると、泥まみれで何事もなかったかのように行進しているのは、「自分は真に、本質からして人間なのだ」と信じて疑わない我々の方である。

人間らしさを守るのではなく、喜劇を続けよう

そこで提案したいのは、守るべきものを探すのをやめて、喜劇を続けることだ。なぜそれが提案になるのか、本書の結びが示す人間の定義から辿ろう。

人間は、生き物としての体と、言葉や制度の世界との合成物ではない。合成という像が誤認を招く。人間とはむしろ、両者の差異が生成されるいくつもの点である。両者それぞれもまた、その差異によって規定されながら同じ点で生成される。そこにおいて両者の関係が絶えず交渉し直される。この生成に先立つ「純粋な生」も「純粋な意味の世界」も存在しないのだ。

…ちょっと何言ってるかわからないので、例として空腹と食事を考えよう。空腹は体の話だが、人間の食事は空腹だけで説明できるものではないだろう。深夜のラーメンの背徳感はたまらない。一人の食事は寂しい。誰かとの食事には安らぎも緊張感もあり得る。体と意味は、同一の経験に重なりながらも、決して一致することはない。一致しないことから、料理、テーブルマナー、ダイエット、ヤケ食い等々が生じている。
他の例として挙げられるのは、「言いたいことはこれじゃない」あるいは「話してみたら、こんなことを考えていたのかと気づいた」という経験だ。自分の気持ちに言葉が合わなかったり、言葉にした瞬間に気持ちの方が変わったりする。この一致しなさは、手紙の書き直しや詩を生んできたのかもしれない。
人間とは、こういった生産的な隙間のことである。

その隙間のためには、本書の言う「余剰の空っぽな地帯」が要る。いわば余白だ。
辛いときほど、我々は一つの枠へと丸めこまれがちだ。「可哀想な被害者」「使える人材か、そうでないか」みたいな枠である。ジュパンチッチによれば、危機の時代に喜劇を続けることは、この丸ごと還元しようとする傾向への抵抗になり得る。喜劇は、余白の地帯の保存を助けてくれるのだ。

が、これには但し書きがつく。同じ余白の地帯が根本的に両義的なのだ。一方では、あらゆる可能な変化の遊び場を構成する。しかし他方では、抑圧を耐えやすくし、既存の秩序をかえって存続させる距離(心の中だけ自由なつもりになれる幻想)としても働き得る。
そして、余白が遊び場になるか避難所になるかは、本人の意識によって決まるというものでもない。それがどう機能し、何に動員されるかによって決まるのだ。

一つの実践としての「真に受ける」

さて、本書での複数の議論を私なりに綜合し、喜劇を続ける実践として「よくあるAI言説に出会ったら、それを真に受ける」ことを挙げてみたい。

例えば、「AIに適応できない人材は淘汰される」的な主張はよく見られるが、これに真顔で反論しても不毛なバトルになるだけだ。そうではなく「真に受ける」、つまり適応や淘汰を字義通り受け取って自然ドキュメンタリーのように扱ってみる。

「こちらは、この職場でAIにいち早く適応した個体です。最新のAIを巧みに操ります。夜になると、適応した個体はAIと『壁打ち』と呼ばれる鳴き交わしを行います。群れの中での序列を確かめる大切な習性です。一方こちらの個体は、適応が遅れてしまいました。しかし、これも厳しい自然の掟。私たちは、見守ることしかできません…」

とてもコントっぽくなった。職場の同僚は「個体」ではないし、人事評価は自然の掟ではないだろう。自然のふりをした取り決めは、本気で自然として扱われるとおかしなことになってしまうのだ。すると、「そうなるしかない」が「そう決めただけ」に見えてくる。このような見え方の転換は、論破によってはもたらされず、笑いの運動の中で起こる。

このコントっぽい上演には、それを面白がっている自分自身にもカメラを向けることが必要だ。「そしてこちらが、この光景を眺めながら『これは喜劇だ』と考え、自分だけはカメラの外にいるつもりの個体です」のように。これを欠くと、喜劇ではなく嘲りになってしまう。
嘲りになっていることに気づくために、「うまく言えた」と感じる瞬間が目安になり得る。誰かの愚かさを的確に突けたと感じたとき、笑いは既に、自分の賢さポイントの勘定に変わっている。

意志の外で働くもの

では前述の余白は、何がどうなって変化に繋がるのか。
本書には、余白は変化の遊び場を構成するだけでなく「変化の中で動員される」と書かれている。動員する側は変化のプロセスであって我々ではない。そして喜劇の運動が得意なのは、この余白を生み出すことなのだ。つまり、喜劇が余白を作り、変化がそれを使う。

ここで、本書の最終盤に出てくる小話を紹介しよう。砂漠でライオンに遭遇した男が、「木に登って逃げた」と言う。「砂漠に木なんてないだろう」と突っ込まれて、男は答える。「ライオンが出てきたときに、そんな質問をするヤツがあるか!走って、最初の木に登るんだよ」

ジュパンチッチがここに見るのは、人間の現実の否認ではないし、その限界の否認でもない。喜劇は人が死ぬことも苦しむことも窮地に陥ることも否定しない。喜劇はそれらに何か別のものを付加するのだ。
付加されるのは、我々が実際に欲してしまうことや動いてしまう仕方が、「これが現実だ」とされる枠(まあそれも現実ではあるのだが)と食い違っている、という事実である。喜劇のリアリズムとは、この食い違いのリアリズムであり、前述した生産的な隙間である。

我々が欲してしまうこと、動いてしまう仕方は、必要とあらばそこにない木に実際に登ったり、砂漠の真ん中に木を出現させてしまったりする。その理不尽な働きを、この小話はまっすぐ認めているのだ。

この理不尽な働きは今も動いている。喜劇は、死後に何かが生き残ると説くのではない。我々の生の何かが今この瞬間にも勝手に生きていることを、気づかせてくれるのだ。生の何かは我々の持ち物ではなく、意志の外で起きている。だから在庫として挙げられるものではない。

泥まみれ行進中の私

最後に白状しておく。私は本稿において、何か普通と違うことを書くことで「代わりのきかない人間」でありたいと思いながら、何度も推敲を重ねた。
それはつまり、私の中の男爵も泥まみれで行進しているということだ。しかも、このように白状したくらいでは行進は止まってくれない。今も私は自分の賢さポイントを気にして、行進しながら書いている。

脚注

  1. 本書によれば喜劇は、感情が本人の真実を映すという前提の側には立たない。人は自分がどう感じているかを知らないことがよくあり、感情は嘘をつく。幸福についても同様だ。幸福が「どう感じているか」から盛大に独立し得ることを、喜劇は巧妙な仕方で見せる。
  2. 「(死んだ)文字」とは、言葉の自動性、口癖、繰り返される台詞や所作のように、それ自体では何も意味せず、ただ同じものとして反復されうる物質的な支えのこと。